クレア・キップス / ある小さなスズメの記録


この前の日曜日。帰宅してテレビをつけるとNHKダーウィンが来た」をやっていた。今回の放送は〈大追跡!ヒヨドリ津軽海峡越え〉。途中からだったが、近所にもいるヒヨドリにこんなドラマがあったのかと、『渡りの足跡』を読んだ後だったのでなおさら興味深く見た。
番組の最後の方では『渡りの足跡』でもその著書が紹介されていた鳥類学者・樋口広芳氏のコメントもあった。彼はまた映画『WATARIDORI』のアドバイザーでもあるのだった。
その日の朝刊には「鳥インフルエンザウイルス(H5N1)が渡りによって拡散」との記事があって、ふだん見落としている記事もちょっと興味を持つと、いろいろとつながっていくものだとあらためて思った。


『渡りの足跡』のデータを見ていたら、こんな本が出ていたことを知った。梨木香歩さんが翻訳、装画は酒井駒子さん。悪いわけがない。二分後にはアマゾンでポチっとしていた。



【 クレア・キップス / ある小さなスズメの記録 (160P) / 文藝春秋・2010年11月 (110108-01010) 】
Sold for a Farthing by Clare Kipps 1953
訳:梨木香歩



・内容紹介
 1953年にイギリスで出版され、大ベストセラーになったノンフィクション。第二次大戦下ロンドン。傷ついた野生の小雀を拾った老婦人が、あふれんばかりの愛情で育て、共に暮らし、最期をみとるまでの実話。かつて日本でも翻訳が刊行されたが、今回、梨木香歩さんの心のこもった新訳と、酒井駒子さんの装画を得て、世界中を涙させた感動がよみがえります。


          


翻訳や装画に自分の好きな人が関わっているのでなければ、まず読まない類の本。小さな命の尊さなんて今の時代あふれすぎていて、かえって軽んじられているのではないかとさえ思っている。児童向けのお涙頂戴の本かもしれないと思っていたのだが、そうではなかった。
この本がちょっとありきたりの物語と違うものになっているのは、ひとえに著者の教養ある、そして英国的な語り口による。ワーズワースキプリングの詩の一節を用いたりギリシャローマ神話が引用されていたり。皮肉っぽくも客観的な観察眼もある。ピアニストだったとはいえ作家ではない、まず一般人といって間違いない一市民がこういう物語を書く。本来野生にあるべきものを人間が飼育する不自然を十分に承知しながら、著者は一つの生命を引き受けた。自分には主人公のスズメの生態よりもそこが面白かったので、ここに書くのはこの作品のあらましに沿った感想ではないかもしれない。



自宅前に落ちていた子スズメを著者が拾う。生まれたばかりで羽毛もまだはえておらず、丸裸である。その小さな子鳥は翼と片足が奇形で、どうやら生きていくことはできないと親鳥が巣から落としたらしい…… ― まず、この冷厳な野生の掟が最初にある。健康な体で生まれてこなかった子供は容赦なく捨てられる。あるいは兄弟に巣からはじき出される。著者の手の中で震えている小さな塊はスズメでありながら、このときもうスズメではなかったのだ。
それが1940年7月。まさにバトル・オブ・ブリテンとザ・ブリッツThe Britz(ロンドン大空襲)の時期。英国民が空から降ってくるヒトラーの爆弾に怯える最中、キップス夫人の足下に落ちてきたのは、そういう‘運命の子’だったのである。
本書はあくまで一個人が書いたスズメが主人公の話であって、大戦当時の世相状況がつぶさに書かれているわけではない。だが当時、連日連夜のドイツ空軍の猛爆撃にさらされながらロンドン市民の士気はけして衰えることがなかったと聞く。
チャーチルの名演説 ―「千年後、国民は言うだろう。あの戦争のときがわれわれ英国の最も輝かしい時代だったと」 ※チャーチルはその格調高い演説と名文により1953年ノーベル文学賞を受賞している)
自身も防空監視員の活動をしながら、小鳥と私生活を共にしようとする夫人の背景には英国民のプライドのようなものもあったのではないだろうか(そんなことは一言も書いてないけど)。



キップス夫人のスズメ〈クラレンス〉は戦時下のロンドン市民の心を和ませ、ひとときの癒しを与えた。その一方で、「この非常時に…」と眉をひそめる向きだってあったにちがいない。良い意味でも悪い意味でも彼女は「スズメのおばさん」として知られていただろう。ここに記されているクラレンスの数々の芸だって、子供の才能を過大評価する親バカ的なものに思えないでもない。‘スズメにしては’歌えたという程度ではないのかと、羽が曲がった飛べない鳥が変な動きをしているのが面白く見えただけではないかと、つい意地悪く考えてしまう。
でも実際のところは、クラレンスが歌おうがカード芸が出来ようが宙返りをしてみせようが、そんなことはさして重要ではないのではないか。一度は見放された(それも親によって)生を人間の下で十二年も生き、夫人の掌でその生を閉じたことにこそ驚きを覚える。不自然なスタートが、愛情と信頼によってかけがえのない自然な常態へと変わっていったのだ。
スズメの世話などしたことがない女性が生後間もないデリケートな生き物に一さじずつミルクを与え、マッチ棒の先にのせた餌を与えて甦らせた。スズメの飼育に詳しい者など身近にいるものではなく、彼女は母性の直感と独力の工夫で蘇生させた。消えそうなか弱い命を救ったのは、偶然の賜物だったとしても、彼女の本能だったのだ。クラレンスは彼女のもとに拾われる運命にあって、夫人はその通りにした。これは人とスズメの「肯定」が生んだ物語なのだ。



この女性、キップス夫人は夫と死別し、子供もいなかった。ドイツ軍の影がいよいよ英国本土にも迫ってきたときに、このスズメはやって来た。彼が神の使いだったとすれば、救われたのはスズメの方だけだっただろうか?
本書は人間に看取られて天寿をまっとうした小鳥の奇跡的な物語で、愛情に満ちた観察記だ。著者はスズメの表情や態度、言葉までも熱心に記述しながら一個の生命の誕生から最期までを優しく語っている。一方、彼女自身のことは詳しく書かれていない。
本当に書かれるべきは彼女の物語ではなかったのか。家を焼かれ敵国機に機銃掃射を浴びるような恐ろしい体験までしながら、足手まといのスズメを捨てなかったのは、彼女がスズメを守るのと同時に、彼女がすがるのはスズメだけしかなかったのではないか。書かれていない、そんなことを詮索してしまう。
彼女はけなげなスズメの生涯を誇らしい存在として記録した。それを書いた人間だって十分誇らしい。良書とはそういうものだ。


訳者あとがきに、この翻訳作業中に梨木さんの愛犬が亡くなったことが記されている。『ピスタチオ』のあの犬、〈マース〉は……
これは、「何が自然か」を問いながら語られるべき物語を語ろうとする梨木香歩さんの作品でもある。