青柳いづみこ / ピアニストは指先で考える

青柳いづみこさんの小説『水のまなざし』を読んだ。
有名音高でピアノを学ぶ少女・真琴は自分の演奏が「歌わない、音が伸びない」という悩みを持っている。声帯に異常が生じた彼女は声が出せない状態になる。「初見暗唱」のテストがあるフランス留学も断念し、治療のために休学する… といった内容なのだが、ちょっと自分の期待とは違う展開の作品だった。
(初小説作品という触れこみだったが、2003年に『文学界』に発表されたもの。現在の青柳さんならまた違う作品を書いてくれると思うのだが…  ※ドビュッシーは『水の反映』、ラベルは『水のたわむれ』)


          


その、ピアノを歌わせる、音を伸ばすというのは青柳さんの若い頃の課題でもあったようだ(もしかしたらピアノを弾くすべての方の悩み、というかテーマなのだろうか?)。待望の文庫化された本エッセイの中でもこのことにページが割かれている。同じ楽器を同じように弾いているのに同じように鳴らないのは部外者にとって最大の不思議なのだが、これがあの小説の元ネタだったかと、いまさら面白く感じられたのだった。



青柳いづみこ / ピアニストは指先で考える (392P) / 中公文庫・2010年12月 (110114-0120) 】



・内容紹介
 ピアニストが奏でる多彩な音楽には、どんな秘密が隠されているのか。演奏家、文筆家として活躍する著者が、ピアニストの身体感覚にせまる。〈解説:池辺晋一郎


          


本書はピアノ誌『ムジカノーヴァ』の連載エッセイをまとめたもの。その連載に平行して書かれたのが『ピアニストが見たピアニスト』。

目次からして興味をそそるタイトルが並んでいる。「曲げた指、のばした指」に始まり「椅子と座り方」「爪」「手が小さい!」「ペダルと靴」「楽譜に忠実?」「解釈」「初見と暗譜」…、さらに「芸大付属校高校」「コンサートの開き方」「衣裳・メイクと写真」や「湿気とタッチ」「レコード店と本屋さん」などなど、演奏テクニックからプロ演奏家としてのレコーディングやリサイタルまで、気ままに、しかし具体的に実践的に語る。安川加壽子さんに師事し、自らも音大講師として独自の指導メソッドを確立している方だけに、技術解説も丁寧でわかりやすい。
彼女の持論が語られるだけだったら専門的な解説書になってしまうところなのだが、そこは‘モノ書きピアニスト’だけあって、リヒテルミケランジェリアルゲリッチら名人の逸話の数々に彼女自身の芸大〜留学生時代の体験談や音大での授業現場の実話まで幅広いエピソードが随所に散りばめられていて、ピアノを弾かない自分にも楽しく読めてしまう(彼女のエッセイはどれもそうなんだけど)。

 こんなことが言えるのも、私自身が「のばした指」と「曲げた指」の間で試行錯誤をくり返してきたからだ。「のばした指」の方が弾きやすいドビュッシーを専門にしている私だが、大学院ぐらいまでは、バリバリの「曲げた指」派だった。


たとえば「初見と暗譜」の章。素人的にはまず音譜が全部頭に入っているというだけでも凄いことだと思うのだが、それを聴衆の前で楽譜を見ずに弾くだなんて、演奏の良し悪し以前にそれだけでも超人技に思える。人間だから途中でつっかえて止まるとか、ど忘れすることだってありそうなものなのに(ましてや他人が書いた曲なのだ)、プロのみならず素人の演奏者だってそうするのだから恐れ入る。途中で止まってあじあじゃしちゃいそう…そんなプレッシャーを考えただけでも、震えそうだ。
リヒテルは正統な音楽教育を受けておらず、いきなりショパンノクターンから始めた。アルゲリッチは寝ている間に友人が弾いていたプロコフィエフの協奏曲を覚えてしまって翌日完璧に(友人のミスまでそのまま)弾いてみせた。‘神童’ギーゼキングは初見の曲をまだめくっていない次のページまで弾いてしまった…… (ちょっと大仰かもしれないが)こういう‘音楽脳’の持ち主がいることは人類の神秘の一つだとまで思ってしまう。指がよく回るとかタッチが繊細だとかの運動神経の話だけならまだ分かるが、いったいこういう記憶能力(ではないのか?)はどのように育まれるのだろう。やはり若いうちから一曲ずつマスターしていくと脳がそうなるのだろうか? つくづくピアニストというのは特殊な人種だと思うのだ。 



特に印象深く良かったのは「ノーミスと人間性」の文章。70年代に女子体操で十点満点を連発したコマネチ選手のことで書き出して、彼女の登場以来、体操演技の質が機械的で技術至上の完全主義志向に変わってきたことと、時を同じくしてピアノの演奏表現も同様に変わってきたことが書いてある。鉄棒の演技では最後のDだかE難度の技の着地を決めるかどうかでほとんど採点が決まる。最近のフィギアスケートも規定のジャンプをいかにノーミスで跳ぶかに評価が集約される傾向にあるように思う。だが、規格にぴったりの「完璧な演技」は「良い演技」なんだろうか?
音楽の場合、はたして「完璧な演奏」が良い演奏なのか。楽譜どおりの演奏が聴きたいならコンピューターに演奏させればいいのだ。たとえばショパンは自分でピアノを弾くと二度と同じ演奏をしなかったという。彼が生徒の楽譜に書き込んだ音楽記号は生徒ごとに同じ箇所で違う記号が記されていたという。
テキストに書かれているものと同時に書かれなかったものを想像すること。行間を読むこと。それが解釈なのであって、その想像力が演奏(表現)の差異につながるのだとすれば、やはりただ技術習得のためだけに機械的なレッスンを積むだけでは足りないのだろうと素人ながら感じ入るところがあった。(なんとなくだがクラシックの愉しみ方の一端がわかりかけたような気もする。で、それは読書の愉しみにも通じるところがあるように感じる)

ステージ演奏家としては、もちろん、雨が降ろうが槍が降ろうが完璧に弾いて帰ってくることを求められる。しかし、彼ら、彼女らが演奏する曲を書いた作曲家は、槍どころが爪楊枝の先がちくんと刺さっただけでも動揺する繊細な神経の持ち主なのである。
 そもそも、芸術作品というのは、心の動揺でできている、とは言えないだろうか?


青柳さんは原稿はパソコンで書いているそうだ。ピアノを弾くときのようなタッチでキーボードを叩くのだろうか。指を伸ばして滑らかに手首を移動させる。彼女はドビュッシー弾きなのだ。
解説の池辺晋一郎氏も書いているが、ピアノ業界に限らず、一般的にプロ演奏家は同業他者のことはあまり語らないものだろう。ピアニストは他のピアニスト(=ライバル)に関しては(知ってはいても)口は閉ざす。そういうものではないだろうか。だがこの本にはそういう躊躇いがない。
ピアノという楽器の歴史や演奏法に関する知識はプロを志す者なら‘学科’として身につけるものかもしれない。それを自分や他人の演奏に重ねてみて自分の音楽指導のメソッドに活かしたり、こうして一冊の本にまとめてしまえるのも、彼女のメンタリティに「物書き」の部分が大きく占めているからだろう。しばしば演奏家はエゴイストなものだが、彼女にはライターとして客観視できる資質があるのだ。その源は『六本指のゴルトベルク』を持ち出すまでもなく、豊富な読書量にあることは評伝から技術書まで本書に引用されている音楽書の数の多さからもうかがえる。
自分にとって「青柳いづみこ」さんといえば名エッセイストであって、(まったく失礼な話だが)彼女の演奏はまだ聴いたことがない。自分はまだクラシックはドイツ・ウィーン音楽中心なんだけど、そのうちドビュッシーを聴くときがきたら、必ずや青柳さんの演奏から入りたいと思っている。