朝吹真理子 / 流跡

朝吹真理子 / 流跡 (102P) / 新潮社・2010年10月 (110121-0123) 】



・内容紹介
 闇夜の川で「よからぬもの」を運ぶ舟頭。雨あがりを家路につく会社員。波止場にたちつくし船を待つ女。 ―定まらずに揺れつづける生のかたちを、揺らぎのままに描きだす、鮮烈なデビュー作! 堀江敏幸氏・選のドゥマゴ文学賞受賞。「彼女の瑞々しい言葉は、これからも確実に前に流れながら、不穏な感情の『たまり』を私たちの胸に残してくれるだろう」(選評より)


          


今年初めて本屋に行き、目当ての本は他にあったけれど「おっ、これが朝吹真理子!」と手に取った本書。昨年から「ジュンブン」(純文学)としての好評を目にしていたし、先週芥川賞を受賞したのも聞いていたから読んでみることにした。
芥川・直木賞には興味がない。受賞作を読むのは『利休に訊ねよ』以来だな、と思って買って帰ったのだが、今回の受賞作はこれではなく『きことわ』という作品なのだった…… しかも、それは今日発売らしい(笑)



100ページの薄い本書を読み終えて、さて何を書けば良いのやら、頭をひねっている。読み始めてすぐ「こりゃ書けんわ」とわかっていたけど。ふだんは気に入ったところや気になる箇所に付箋紙を付けて読むのに、この作品にそういうポイントはないのだ。いわば「ポストイット拒否作品」だなどと余計なことを考えていると「黙ってお読み!」と著者に叱られそうな気がして、集中力を要する読み物だった。そういえば昨年の小野正嗣『夜よりも大きい 』もこんな感じだった。
余計ついでに…… さっき「あさぶきまりこ」と入力すると「朝吹真理子」に一発で変換された。これは凄いことのような気がする。自分のATOKは三、四年前のヴァージョンなんだが。そんなことからも、やはり血筋が良いのだ大したもんだ、などと考えると「本当に余計なことね」と著者に怒られそうだが。



ストーリーや時代、性別、背景などの小説的設定などない、不定形な作品。
本を読んでいるのに言葉が頭に入ってこない。本を開くたびに文字列が解けて文字が消え、逃げ出してしまう。その流れ出た文字たちが「春の門」をくぐると「ひと」の形になって花見の宴をさまよううちに薪能の舞台に引っぱり出される。その場を逃れて舟に乗ると「運び屋」として幽霊を乗せて竿を繰っている……
不穏な幻想に見せかけて書かれているのは「不確かな生」かと思うのだが、そうではなさそう。単調な、退屈な日常は決して悪いことではないと、どこかに明記してあった。
移ろいやすい虚ろな文字を並べて人間の生を、ただ死んではいないだけの生の営みを記そうとする行為への不安は感じられる。「不確かだからこそ、生」ということは書いてあるかもしれない。



抽象的な前半から、後半は妻子ある中年男性の日常に露わになる幻想の具現へと転換する。
人は焼かれて斎場の煙突からたなびく煙にまぎれて他人に吸着して体液に取りこまれて液胞として体内を流れめぐって、排泄されて海に戻る。砕かれた骨片の微粒子を吸いこんで人は誰かの記憶を共有しているのかもしれない。そうした彼の幻視は死への欲求からか生への渇望からなのかは判然としない。
ただ、人の分子と書物の一文字は似たものであることを連想させる。本に書かれる人間は、もちろん文字で出来ているのだから。ならば、より確かな文字と言葉を引っ提げて、より確かな生へと、分解から再構築へと、著者はこれから向かっていくはずだ。(…と無難にまとめてみる)

漠とした「実人生」なるものを疑いながら、こうして核もなく柱もないイメージを文字列に再収束させていくのはまぎれもなく才能であり、また若さのなせる業でもあるのだろう。古めかしい文体を用いながらも、あくまで現代性が失われていないのは好ましい。何より作家デビューに際して、ドラマのでっち上げに注力せずに、まずは「生」を書くことへの畏れを表明していることが頼もしい。

一作目を読んでしまったので、『きことわ』も読まねばなるまい。