伊藤計劃 / ハーモニー


ハリウッド映画みたいな世界観の『虐殺器官』はどうも好きになれなかった。伊藤計劃さんの長篇第二作にして遺作となった本作。これも自分の好みではないかもしれないと思いながら読み始めた。
1/29夜、アジアカップ決勝は24時キックオフ。これを少し読んでから仮眠しておこうと思っていたのだが、止められなくなってしまった。



伊藤計劃 / ハーモニー (381P) / ハヤカワ文庫JA・2010年12月 (110128−0130) 】

 ※単行本は2008年 8月刊



・内容紹介
 21世紀後半、「大災禍」と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は大規模な福祉厚生社会を築きあげていた。医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、見せかけの優しさや倫理が横溢する“ユートピア”。そんな社会に倦んだ3人の少女は餓死することを選択した― それから13年。死ねなかった少女・霧慧トァンは、世界を襲う大混乱の陰にただひとり死んだはずの少女の影を見る。第30回日本SF大賞受賞、「ベストSF2009」第1位、第40回星雲賞受賞。


          


アメリカの人種対立に端を発する暴動が世界に飛び火して核戦争にまで発展、世界が崩壊したその〈大災禍〉の反省と反動によって再構築された未来社会。人類は分子レベルで体調管理する〈WatchMe〉というソフトを体内にインストールして、病気を根絶を実現した。また、拡張現実によって個人の健康状態や社会評価などの個人情報がオープンにされていて、健全で健康的な(逆に言えば不健全で不健康な人間は淘汰される)生命を重んじる平和的な世界を実現しているように見えた。しかし、そんな社会の成り立ちに息苦しさを感じている少女たちがいた……
この未来世界設定が自分には妙に生々しく感じられた。現在の健康志向(というか潔癖症)が進めば、きっと人の免疫力低下は免れないだろう。新種の変異ウィルスが続々と発生する事態に直面すれば、人間は異分子を敏感に感知して排除しようとする〈WatchMe〉のようなシステムを模索するのではないか。
現在は個人情報は保護一辺倒だけれど、犯罪捜査の現場で致命的な不都合が生じたりした場合に、一気にベクトルは逆に向かうのではないか。ひと昔前に強硬な反対で葬られた国民総背番号制が今さしたる異論もなく導入されようとしている。携帯端末の高機能化も知らず知らず個人情報を晒す機会を増しているのではないか……

 世界を傷つけるため、わたしたちを大事にしすぎることで窒息させようとしていた世界に、誇り高く致命的な一撃を加えるために、ミァハとキアンと一緒に運命の錠剤を飲んだのはわたしです。


そうした一見進歩的に見える人類の歴史を著者は、そのときどきの環境に合わせて意識化されてきた継ぎ接ぎの歴史だと喝破する。過去にも未来にも、現代と地続きの社会変化への洞察の鋭さが本書のバックボーンにあって、だからあまりSF風味を強く感じさせないのだった。
体制が市民の健康状態を制御できるようになれば、次には意識や感情のコントロール(あるいは個人意思の排除)へと向かうのだろう。そのために『虐殺器官』に続いて本書でも再び持ち出されるのが「虐殺の言語」のようなもの、大衆心理をコントロールする強迫観念なのだった。
ある日、世界各地で同時多発的に六千人以上の人間が自殺事件が発生する。この大量自殺は何者かが仕組んだテロなのではないか。主人公のWHO査察官・霧慧トァンは事件の背後にかつて親しかった者たちの影を見いだす。



ユートピアのように見せかけて、実は全体主義的な傾向に向かう社会の怖さが書かれてあるのだが、ストーリーの構造自体はシンプルで、女の子が主人公でもあるので読みやすい。社会体制対個人。疎外感。最近ではめったにお目にかからなくなってしまった社会に反旗を翻すアンチヒーロー(ヒロイン)物といってしまっても過言ではないかもしれない。
トァンの親友でありカリスマ的存在の御冷ミァハのキャラクターが魅力的だ。(これも現在と地続きとして意識できる)この未来世界では本はもはや‘デッド・メディア’なのだが、彼女はわざわざダウンロードしたデータを書籍化して、本として所有している(『華氏451度』へのオマージュとも受け取れる)。昔話として彼女がトァンらに語って聞かせる二十〜二十一世紀の、つまり現代文明の挿話が面白い。彼女の語りが物語中に占める割合は多くて、それが本書に時間小説やミステリ風の楽しさも与えていると思う。
トァンとミァハが再会を果たす最後は、これで良かったのだろうかと思わないでもないが、おそらく著者は意識的に情緒的に書くのを控えたのだと思う。

「映画とか、絵画とか。でも、持久力という点では本がいちばん頑丈よ」
「持久力、って何の」
「孤独の持久力」


ちょっと前には省エネと言っていたことを今ではエコと言う。わざわざそんなことを口にせずとも当たり前だったことがいつしかスローガンとして定着し、制度化されてシステムとして強制力を持つようになる。CO2の排出権を売買するようなことが本当に地球環境のために良いのか誰にも確かなことはわからないのに、なし崩し的に世界的な潮流になってしまう。
健康でありたいという大多数の人々の願いだって、それを逆手にとって政治利用されるときには、不健康=悪であり怠惰・堕落な人間性として批判されるようになるのだろう。現在の嫌煙やメタボの流れにだってそんな予兆を感じてしまう。そこに個性は一顧だにされないのだ。
病に冒された身体で執筆されたと聞いていたからもっと暗鬱な作品かと思っていたのに、意外に楽しんで読めてしまった。
自力ではどうすることもできず医療テクノロジーに頼るしかない病床にあって、著者がその個人的な体験を内向的に表現しようとするのではなく、鋭敏な感性をあくまで社会に向けて重厚な思索を作品化した作家精神に敬意を表したい。また、伊藤氏の個人的なことはまったく知らないけれど、同時代を生きた人として同じ本や映画に感銘を受けていたらしいことが本作からも伝わってきた。病状に不安を抱えていても、これを書いているときは彼自身も楽しかったのではないか。そう思いたい。良い作品だった。