フェリクス・J・パルマ / 時の地図


H.G.ウェルズのタイムマシンで切り裂きジャックに狙われた恋人を救いに行く… そんな広告文を目にして、これが面白くないわけないだろうと楽しみにしていたんだけど、期待をはるかに越える素晴らしさだった。
早く昨日の続きを読みたくて急いで帰る。今週はそんな日々だった。リーダビリティの高さはエリザベス・ムーン『くらやみの速さはどれくらい』、コニー・ウィリス『航路』以来だったかも。☆☆☆☆☆ 早くも本年ベストの一つに確定!(刊行は昨年だけど)



【 フェリクス・J・パルマ / 時の地図 (上414P・下411P) / ハヤカワ文庫JA・2010年10月 (110131−0204) 】
EL MAPA DEL TIEMPO by Felix J.Parma 2008
訳:宮崎真紀



・内容紹介
 1896年ロンドン。恋人を切り裂きジャックに惨殺され、大富豪の息子アンドリューは失意の底にあった。彼はタイムトラベル・ツアーを催す時間旅行社を訪ねた。時間をさかのぼって切り裂きジャックから恋人を救おうというのだ。だが、そのツアーは未来にしか行けず、彼は小説『タイム・マシン』を発表したH・G・ウエルズの力を借りることに。一方、上流階級の娘クレアは、2000年へのタイムトラベルに参加するが……


          


1896年、十九世紀末の頽廃のロンドン。この時代へのタイムトラベル物というと『犬は勘定に入れません』がすぐに思い浮かぶけど、この作品は時間移動をネタにしながらも実はSFではないのだった。「あなたにこれから起こることは、もう私に起こったことなのです」― ウェルズが『タイムマシン』を発表した当時、まだ‘SF’という文学ジャンルはなくて‘空想科学ロマンス(Scientific Romance)’と呼ばれたらしいのだが、これは四次元空間とかタイム・パラドクスのルールよりも時空を越える恋と冒険に重きを置いた‘非科学ロマンス’とでも言うべき傑作だった。
ヴィクトリア朝の英国。三部に分けられた三篇の物語は栄華を誇る都ロンドンの暗部、移民と犯罪者の巣窟でもあったイーストエンドを舞台に始まる。読んでいるこちらは、どこでウェルズが出てくるのかわくわくしながら読み始めたのに一向にそんな気配はなくて、冗長な語り口に始めはちょっといらいらさせられる。しかしこの貧民街の劇画的な描写が良く、富裕層の青年と街娼の途ならぬ恋の(ありきたりな、予想どおりの)顛末につりこまれたところで、「ここでか!」という(思わず拍手したくなる)タイミングで作家ウェルズ本人が悲劇の修整役として登場するのだった。

 こんなわけのわからない話、理解しようとしても頭が痛くなるだけかもしれませんが、説明すればとても簡単です。要するに、あなたにとってまだ起きていないことでも、私にとってはすでに起きたことなのです。これはタイムトラベル、つまり人が時を越えて行き来したことが引き起こしたとても珍しい出来事です。あなたももうおわかりよね?


個人的に最も印象深かったのは、まだ無名のウェルズとジョセフ・メリック〈エレファントマン、1862−1890〉との対話場面。メリックが晩年を送ったロンドン病院はまさに切り裂きジャックが出没したイーストエンドのホワイトチャペル地区にあるのだった。この場面はべつになくても物語の進行にはさして関係なさそうなのだが、著者はウェルズの同時代人の一人として〈エレファントマン〉を使いたかったのだろう。このときのウェルズ二十代前半であり、彼が『タイムマシン』を皮切りに『透明人間』『宇宙戦争』などの空想科学物の傑作を連発するのは五、六年先のことになる。
このときの会話が後のウェルズの作品群にインスパイアを与えたというのは架空だとしても、実に印象的な余韻が残る。著者はサーカス小屋の見せ物としてしか生きられなかったメリックに「もし本当にタイムマシンがあったなら、古代エジプトに行ってみたい」などと語らせる。だが、それは本心だろうか…?というその挿話の切実さはメリックの悲惨な境遇を想像させると同時に、何が何でもタイムマシンがなければ困る状況になる本篇の主人公たちの失われた時間への思いの強さと重なって、見事な効果を上げていると思う。
それから第二部で未来の勇者・シャクルトン将軍に恋をして大胆な行動に出るクレア・ハガティは、おそらくこの十年ほど後に女性の性解放をテーマにウェルズが書く『アン・ヴェロニカ』のモデルなのではないかと思われる。
(‘シャクルトン将軍のブーツ’には大笑いした)



第一部、二部とも階級差と時間の壁にぶつかって窮地に陥る恋人たちの、三文小説的で下世話なロマンスにウェルズが時間移動の魔法をかける、といった内容。どんでん返しのオチは「なーんだ」というものだが、そもそも本書は「タイムマシンを使わずに」パラレルワールドの実在をほのめかすことで、それらの難題を解決して円環の永遠の輪を閉じようとする物語なのだ。
第三部では未発表の『透明人間』を知っている本物のタイムトラベラーが現れてウェルズと対決するという同時代のコナン・ドイル風な(すでにシャーロック・ホームズ・シリーズは世に出ている)怪奇ミステリっぽい展開になるのだが、この最終話は完全にウェルズの生涯に捧げられた形になっている。彼が大衆的なSF作品を書いたのは三十歳前後の数年だけで、その後は第二次大戦後に没するまで四十年以上にわたって社会批評的な作品を書くようになる。
そして巧みな話術と構成によって、この本そのものがパラレルワールドの一つであるかのように導く仕掛けになっているのだった。

実際、まったく飽きませんよ、この仕事をしていると。十九世紀はタイムトラベラーのいたずらがいちばん多い時代のひとつなんです。多分、手を加えるととんでもない結果がもたらされるケースが多いからだと思います。そして、私がどんなにそれをせっせと元通りにして回っても、ここに戻ってくるたび、回復したはずの現状がまためちゃくちゃになっている。ええ、もうあきらめています。


ウェルズ以外の登場人物も多いのだが、そのロンドン市民の誰もがいかにも前時代の英国的でわかりやすいキャラクターなのが魅力的。実在と虚構を複雑に絡めて連鎖する彼らの人間模様の語り口も巧みで、これは訳者の労によるところも大きいのだろう。
当時の彼らは「タイムマシン」を、われわれ現代人がイメージするそれよりも、ずっと実現可能性の近いものと信じていたのではないか。
あいつぐ科学的新発見と発明に湧く新文明の時代。続々と新工場が建設され「世界の工場」となった英国だが、路上を走っているのはまだ馬車と自転車の時代だ(ウェルズは自転車が大好きだった)。飛行機すらまだ飛んでいないのに、時空を跳躍する機械を夢想できた時代の人々は、現代から見ればまだまだ素朴だったといえるだろう。
その無垢な空想の力がこの作品の原点にある。自由で豊かな想像力こそが時間をも超越するパワーを生む。そんな時代だったからこそ、百年後の未来に地球を救うはずの人類史的英雄・シャクルトン将軍との出会いに運命を感じた令嬢ミス・ハガティがのこのこホテルについていってしまうことだって大いにありうるのだ。(彼女が妊娠したらどうなってしまうのか、そっちの方に大いに気を揉んだ。未来人の子を宿してしまったら、どうなるんだ? さすがにそこまで話は膨らまなかったが…笑)
二十一世紀の現在身の回りの‘文明の利器’の数々を見渡してみれば、便利という以外には人を脆弱にし怠惰にするばかりの機器ばかりあふれている。想像力だって人類の才気だが、なぜそれを減衰させるマシンばかりが作られるのだろう。もちろんウェルズは『タイムマシン』の最後でそんな人類文明の衰退を予言していたのだが。
でも、本というのは現代にあっても唯一想像力を鍛えて、自分をもう一つの世界に生きさせることができる装置なのだと、それは十九世紀以前から不変なのだと、あらためて教えてもらった気もするのだ。こういう作品を読み終わってしまうのは、いつもちょっと寂しい。



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《メモ》


1. 【 ジャック・ロンドン / どん底の人びと―ロンドン1902 / 岩波文庫(1995年)】

          


1902年夏、エドワード七世の戴冠式でにぎわうロンドンのイースト・エンドのスラム街に潜入したジャック・ロンドンが、「心と涙」で書き上げたルポルタージュ



2. 【 1980年映画 『エレファント・マン』 】

          

ほとんど忘れていたこの映画のことを懐かしく思い出した。劇場公開時に映画館で一度、テレビ放映で一度見ている。ラストシーンは号泣。
デビッド・リンチ監督の第一作。ジョン・ハート、アンソニー・ホプキンス、サー・ジョン・ギールガッド、アン・バンクロフトと英国の名優がずらり並ぶ。画像は映画パンフ

エレファント・マン」は舞台化もされていて、デビッド・ボウイが特殊メイクなしで演じて話題になったのを覚えている。(日本では藤原竜也が演じたらしい)
また、大英博物館所蔵のメリックの骨格をマイケル・ジャクソンが金に物を言わせて自分のコレクションにしたという噂もあったと記憶している。



3. H.G.ウェルズ(1866-1946)と同時代の英国作家

 ・コナン・ドイル(1859-1930)
 ・サマセット・モーム(1874-1965)
 ・アガサ・クリスティ(1890-1976)
 ・ジョージ・オーウェル(1903-1950)

※ドイルとモームはウェルズとの親交があった