上原隆 / 胸の中にて鳴る音あり


【 上原 隆 / 胸の中にて鳴る音あり (241P) / 文春文庫・2011年 1月 (110207−0210) 】



・内容
 介護地獄に苦しむ元キックボクサー、淡々と「不倫のメリット」について語る女性が漏らした最後の一言、ネット喫茶でたったひとり新年を迎える男、文学賞に落選し続ける四十三歳…。普通の人々の普通の生のなかの瞬間をあるがままに描く21篇。どんな小説よりも鮮烈に現代を映すコラム・ノンフィクション。


          


「文学界」連載コラムとのことで、目次の数字は8、19、30、40、50……ときっちり十ページずつ刻まれている。
読んでいる間はそこそこ面白かったが、読み終えると何も残っていない。武村正義(元政治家)、松原良香(元プロサッカー選手)など何人かの著名人も混じっているのに、一般人を取材した大半の「作品」(といっていいのかどうか?)にまぎれて印象は薄い。見るともなく見ていたテレビの報道番組でニュースと天気予報の間にやっていた何かの数分といった感じだ。
同僚の三人の男とつき合っている営業職の女性が登場する。営業社員は日中、社内にいてはいけない決まりが彼女の会社にはあるらしく、勤務時間内に男性社員とラブホテルに行ってヒマつぶしをするようになったのだという。彼女にとってそれは日常的なことなのであって、特異なのではない。
その世間的なズレを深刻に扱わない。社会性はいっさい問わずに、あくまで彼ら個人個人の自己完結的な現状を素描するだけだ。
そこが良いのかもしれない。おそらく著者は初対面の相手に透明人間のように同行して、約束の時刻になれば静かに立ち去るのだ。現代人の闇のそばの特等席にいながら、その内面を探って言語化しようとはせず、むしろ傍観を決めこんでいるかのようなスタンスは、著者が映像制作の仕事をしていたからかもしれない。



余計なコメントをはさまずに淡々と日常に寄りそいつつ過去を語らせる。失業、離婚、不倫、闘病、生活苦といった、本来の居場所からはみ出したり余計なものを背負いこんだ人たちに分岐点を振り返らせながら、それをテーマにはしない。あくまで、その人にとっての現在と日常を観察する。
わずか十ページ。抽出でも凝縮でもない、現在意識の断片。どの人生観も同じボリュームの同じあっさりした味に仕立ててしまう。本人にかわって現在地点をマーキングしているようでもある。その整理の手際良さには感心しつつも空腹感は満たされなかったのは、ふだん自分が読む本とかけ離れていたからだろうか。体良くまとめられて、枠からはみ出し、にじみ出し、こぼれ落ちてくるものを一欠片もつかめなかった。
(これを読む前に、先日引っぱりだしたジャック・ロンドン『どん底の人びと』を少しずつ再読していたのもこちらの気分に大きく影響していたとは思う)



おそらくこの仕事は、コンタクトを取り趣旨を説明して取材許可を得るまでに大変な時間を要するのだろう。それは駅前で女の子を呼び止めようとする男たちと、竿を垂らしてじっと待つ釣師の作業と、さして変わらないのではないか。ターゲットは「市井の人々」だとはいっても、誰も彼もが自分のことをぺらぺら喋ってくれるわけではないのだ。
ひねくれた角度から眺めれば、これは近くの人間には話しにくいが赤の他人になら打ち明けられる、そういう類の話を集めたものということになる。あるいは誰かによって「本当の自分」の物語が書かれる願望だって、少なからず含まれているようにも感じられる。そこが現代的ということかもしれない。
これが好評を博すということは、やはり人は他人のサクセスストーリーより他人の弱さや挫折談を喜ぶものなのだろうか、ともふと考えてしまう。
自分の人生の一部が他人によって文章化され本にまでなることで、本人の記憶にどんな作用があるものか、そこには興味がある。もしかしたら、第三者に話すことで過去が再構成されて今までと違う意識が前面に定着するのかもしれない。
気楽に読めるしもう一冊読んでみようかと思っていたが、もういい。コラムと名乗っているからには、何かの媒体に載っているのを一篇だけ読むのがふさわしい気がするし、コラムの枠を越えるものではないというのが個人的な実感。これの何百人もの標本集成だったらまとめ読みしてみたいとは思うけど。