馬場マコト / 戦争と広告


書名から硬い広告論の本かと思いきや、資生堂山名文夫を中心とした日本広告界の戦中・戦後史ともいえるドキュメントだった。広告業の原点を時代に消えた先達の仕事を掘り起こすことで見つめ直す、たいへんな力作だった。



【 馬場マコト / 戦争と広告 (237P) / 白水社・2010年 9月 (110205−0211) 】



・内容
 広告依頼主は内閣情報局大政翼賛会。仕事は第二次大戦での戦意高揚をはかるポスター制作など。引き受けた山名文夫ら、当時の広告界の精鋭たちが取り組んだ「戦う広告」最前線の成果を通して考える、戦争の悲しい宿命。


          


『昭和二十年の「文藝春秋」』(文春新書)に掲載されている紙面写真の一部に当時の広告も見ることができる。「攻勢の神機来る!」「増産で神鷲に続け!」…… 商品の告知ではなく、手書きの勇ましい一文と社名が書かれているだけ。シンプルというか素っ気ないというか、図案もへったくれもない広告だ。
当時は企業広告にも「八紘一宇」「武運長久」「神州不滅」「尽忠報国」などの文字が躍った。目にするのがこんな調子の言葉ばかりの日々が続くというのはどんな気持ちになるのだろうか。ちょっと想像がつかない。
戦争末期、原材料不足と生活物資統制によって企業の生産活動は大きく制限された。化粧品の物品税は80%にもなった。ほとんどの企業がそうであったように、資生堂も国策から製品の数を減らし、敵性語だとして商品名の変更を強いられた。化粧品の容器は陶器にして店頭で回収、再利用していた(化粧品の生産そのものも減り、手洗いから洗濯まで同じ石鹸で済ますよう指導された。万年筆などの文具も作っていたそうだ)。
そんな時代だから企業の宣伝部員の仕事は減る一方だった。己の技量を存分に発揮した広告を自由にデザインしたいという青年たちの渇望が唯一かなえられる場、それは考えうる最大のクライアント、お国の情宣活動だった……

 戦争が激しくなればなるほど、戦時生活に不要不急の企業から統制の波がかかるのはいたしかたなかった。新井たちの森永が早々と広告を中止したのは、二年前の八月だ。まったくの話、お菓子と化粧品、子どもと女という、戦争に役に立たないものから順番に切られていく。


今でも「資生堂唐草」「資生堂調」として知られる企業デザインを手がけたのが資生堂意匠広告部の山名文夫(やまな・あやお)だった。旧カネボウのロゴ(あの釣り鐘の)や現在も使われている新潮文庫の葡萄マークなど、彼が制作したアール・デコ調のデザインを見たことがない人はいないだろう。繊細なタッチのモダンなイラストで一世を風靡した彼も昭和十六年の対米開戦以後、戦局が混迷を増すにつれ、仕事が減っていったのだった。
その山名を新設の「報道技術研究会」に誘い、終戦まで活動を共にしたのが森永製菓の新井静一郎だった。彼は企画とコピーに才のある人だったようだが、紹介されている森永宣伝部時代の彼の仕事を見ていると、開高健『巨人と玩具』を思い出さずにいられなかった。
イメージガールを全国公募してタレントにする。「キャラメル大将」という商品キャラクターを設定。国を支える母を讃えるとして豊島園に二十万人の母親を集めた(!)「母の日」イベントを開催(子供に菓子を買い与えるのは母親なのだ)。日中戦争期に今と変わらぬ商品キャンペーン活動が行われていたとは考えたこともなかった。ここに挙げられているのは森永の例だが、おそらくライバル社の明●も負けじと対抗策を打ったはずだ。競争は新聞、映画とのタイアップから、ついには国策との連係を図って国のお墨付きを得ようとするまでに至る。
『巨人と玩具』はまさにその菓子メーカーの過熱激化するシェア争奪戦を題材に時代を戦後に置き換えた作品。戦前は「内制」と言い、広告は自社内の宣伝部で作っていた。現在は外注が多くなったが、社風として社内制作する企業もある。その筆頭が資生堂サントリーであり、そのサントリー前身・寿屋宣伝部に開高健はいた。彼はそこで他社の広告宣伝活動を知る中であの作品のアイデアを得たのではないか。



山名と新井ら精鋭が集って動き始めた「報道技術研究会」はじきに内閣情報部から仕事を得るようになる。当時としては圧倒的にグラフィカルな作品を作って、大東亜共栄圏や反英反米思想の正当性を視覚で訴えることに成功したのだった。「欲しがりません勝つまでは」「進め一億火の玉だ」「足りん足りんは工夫が足りない」など現代でも有名なスローガンは大政翼賛会と新聞社が募集して選出した標語らしいのだが、それを視覚化して普及させたのもこの研究会の成果の一つだった。
組写真や写実的なイラストとコピー文を美しく効果的にレイアウトした「目から心へ」と訴える広告はこの時代に他にはなかった。戦意昂揚の促進を目標に、当時最先端のクリエーター陣がそれぞれの能力を結集して、疲弊する一方の国民意識を刺激し続けたのだった。
残念ながら(というのは不謹慎かもしれないが)それらの作品の写真は本書には載せられていない。ほとんどが手作りの一点物だから残らなかったのかもしれない。
ただ一つ、実に印象的な作品が紹介されている。命令調スローガン一色だった当時に、前線の一兵士の心情を壁新聞にして訴えたもので、新井が書いたその文面は以下のようなものだった。

おねがいです。隊長殿、あの旗を射たせてくださいッ!
次々と倒れていく散兵戦で、たまりかねた兵隊が絶叫する。「畜生!あの旗が撃てたら……」
     …(中略)…
しかも…正義と人道を世界にわめき散らしているのは誰だ。ルーズベルトチャーチルよ、反攻を豪語したければするがいい。長い間、我々が悲憤をたぎらせたその旗を、今こそこの手で引き裂き、この足で踏みにじってやるのだ。 見ろ!我々の喜びに輝いたこの力強い顔を、もはや不平もない、泣き言もない、すべての生活、すべての希望を、この一戦にかけて、国内も戦場も、我らは戦いに戦い抜くのだ。この地球上から米国旗と英国旗の影が一本もなくなるまで、撃って撃って撃ちのめすのだ。

美文というのとは違う。しかし、上手い文案だし良く出来ている、と唸ってしまった。これを東京で軍部に求められて仕事として書いてしまうイマジネーションがすごいと思うのだ。この当時にもう「くださいッ!」のような表記が使われていたことも新鮮に感じた。



戦時にも美意識を持ち続けた彼らが広告制作企画に情熱を注いだにもかかわらず、戦争はあっけなく終わる。戦争体制維持に協力した彼らの戦争責任はどうだったか。著者は「時代と併走する」同じ広告人としての素直な心情を書いている。
それについて賛否はあるだろう。だが、語弊を承知で書けば、戦争というイベントがあらゆる分野の技術(文明)を発展させてきたのも人類史上、否定できない事実なのではないか。民族精神も技術も肉体も総動員、結集する舞台装置としての戦争。当時アメリカはジョン・フォードにミッドウェイ海戦の記録映像を撮らせ、その作品にアカデミー賞を与えたりしている。ラジオは国民の士気を高めるべくアッパーなスイングジャズをがんがん流した。それに比べると本書に書かれている日本の情宣活動など、ほんのささやかなものに思えてもくる。
日本の広告業界が社会的に認知されるようになったのは、ここ数十年のことだ。糸井重里や川崎徹らがメディアに登場するようになってからのことだろう。それまでは「広告屋」として「商業美術」として社会的地位は一段低いものに見なされていたという。最新のアートスタイルと斬新なデザイン性で時代の最先端に立つ現代広告の初期形が「報道研究会」の仕事にはあるのだった。
一枚のチラシやポスターで時代を表現してしまうパワーはあの戦争期も今も変わらない。広告というものの存在が時流に乗る(抗えない)宿命にあるのなら、著者が言うとおり、二度と戦争を起こしてはならないと願うしかない。彼の訴えが広告業界だけでなく、あらゆる業界が第二次大戦時に自分らの仕事がどのように機能していたのか再検証することにつながり、より職業倫理が高まれば良いと思う。
本書には間接的に写真家の名取洋之助土門拳、建築家の前川國男丹下健三らの名前も登場する。すごい時代を生き抜いたイノベーターたちの熱い息吹を感じられる一冊でもあった。