多和田葉子 / 雪の練習生


ずいぶん前に読んだ多和田さんの芥川賞受賞作『犬婿入り』は自分にはよくわからない作品だった。今回はほとんどジャケ買い多和田葉子とシロクマ…!? 何年か前に話題になった「ベルリン動物園のクヌート」(母熊が育児放棄して飼育員に育てられたホッキョクグマ)も出てくるというので読んでみた。



多和田葉子 / 雪の練習生 (254P) / 新潮社・2011年 1月 (110217−0221) 】



・内容
 この子を「クヌート」と名づけよう―。白い毛皮を纏った三代の物語。
極北の地に生まれ、サーカスの花形から作家に転身し、自伝を書きつづける「わたし」。その娘で、女曲芸師と歴史に残る「死の接吻」を演じた「トスカ」。そして、ベルリン動物園のアイドルとなった孫の「クヌート」。人と動物の境を自在に行き来しつつ語られる、美しくたくましいホッキョクグマ三代の物語。多和田葉子の最高傑作!


          


ホッキョクグマの自伝で旧社会主義体制時代の東欧と現在の統一ベルリンをつなぐクロニクル。キエフウクライナ)、東ドイツのサーカスで人気者だったホッキョクグマの子孫がベルリン動物園で愛嬌をふりまくクヌートという設定だ。
人間社会に属する動物を通して世界を描くというと古川日出男『ベルカ、吠えないのか』を連想するのだが、そこは‘非リアリズム’の多和田さん、幻惑的な語りでヒトとクマの過去未来を交錯させ融合させていく。自伝の中で自伝を書いていたり、自伝には書かれないはずの未来の今に生きていたり…。有名作家としてホッキョクグマが人間の会議に出席したり、ドイツ語を学ぶ姿は始めこそ奇異に感じるものの、読んでいくうちにしだいにその違和感は薄れていくのが不思議だ。
三部構成だが、三話で一つの物語を形成するのではなく、連作集といってもいいかもしれない。中でも第二部、東ドイツのサーカス団にやってきたホッキョクグマ‘トスカ’とウルズラという女性調教師の〈死の接吻〉は、切なく美しい物語になっていた。

 「母は自伝を書いたの。」「すごいわね。」「四苦八苦して試行錯誤して七転び八起きして諦めないで書き続けたの。」トスカの声はいつも氷のように澄み渡っている。「でもわたしには何も書くことができない。」「どうして?」「わたしはその伝記の登場人物だもの。」「それならわたしが書いてあげる。あなただけの物語を書いて、お母様の自伝の外に出してあげる。」


動物の目線で人類の文明や体制を批判したり動物愛護や環境問題を訴えようとしているのではない。現実のクヌートや、他の動物園で育児放棄されたクマの赤ちゃんをめぐっては、自然死か保護か、何が自然な状態なのか相当な議論があり愚かしい騒動も持ち上がったようだが(もちろん人間界の話だ)、本書ではそうした人間側の狂騒には一定の距離を置いている。
ベルリン在住の多和田さんはクヌート・フィーバーをよく知っていたはずで、その見聞を中心に据えて書けば本作は別のものになってしまっただろう。クヌートは環境大使にも任命されて世間の注目を集めたのだが、人間がホッキョクグマに持つ(地球温暖化で絶滅の危機にある動物の象徴としての)イメージに縛られないためにも、著者がクヌートの側に立ってしまうのは有効だったのだろう。



では、環境問題を含む文明批判や人類社会の風刺でもないとすれば、この作品には何が書いてあったのだろう。ホッキョクグマに何かを代弁させたり、擬人化、あるいは擬熊化によって人と動物を対等に扱おうとしているのでもない。三話に共通の通底したテーマがあったわけでもなさそうだ。
ただ、三篇を通じて自分がうっすらと意識したのは「壁」という概念。本作ではクマが自伝を書き語るのだが、そもそもクマがクマ語を(ないしは北極語を)話していないと、どうして人間に断定できるだろう。人と動物。文明と野生。ホモ・サピエンスが考える自然とホッキョクグマの自然。言語。主義や体制。階級、所属や肩書き。サーカスの移動生活者と定住者。サーカスの檻や動物園の柵。そして、ベルリン。見えるものも見えないものもあるが、この社会はいろいろな壁に囲われていて、人間の精神によって隔離したり閉鎖した空間があることを思い出す。
いろんな壁(のようなもの)が書かれているのに、それをことさらに意識させないのは、主人公(ホッキョクグマ)がとっくにその壁を破ってしまっているからだ。

 「あなたの話を書く、と約束したのに自分の話ばかり書いてしまったの。ごめんなさい。」「いいのよ。まず自分の話を文字にしてしまえばいいの。そうすれば魂がからっぽになって、熊の入ってくる場所ができるでしょう。」「あなた、わたしの中に入ってくるつもりなの?」「そうよ。」「怖いわね。」わたしたちは声を合わせて笑った。


壁は無意識のうちに心の中で区別の基準になり不文律の法となる。何かを遠ざけるための壁は、一方でわれわれ自身を束縛してしまう。ベルリンの壁は崩壊したけれど、個人的な壁はむしろ増える一方なのではないか。民主化とか近代化とは、実は壁や柵や扉を増やすことではないのか。
そんなことを考えていると、ホッキョクグマが人間に育てられるのは野生の状態ではないが、クヌートという個体の生命にとっては不自然なことではなかったのだと思えてくる。猛獣使いのウルズラとトスカ、飼育係のマティアスとクヌートの関係は人と動物の間で、人間側が防衛本能から一方的に無意識に築く壁をあっさり取っ払ってみせたものだ。一切の注釈も但し書きも付けないでヒトとクマを併存させる。そこに否定や懐疑を挟もうとしない姿勢が「クマが自伝を書く」というアクロバットを自然な肯定へと導いているのだった。

ストーリーとは直接関係のないところにさりげなくパンチの効いた一文が忍ばせてあって油断できない。第二部に書かれているサーカス団員の巡業生活も興味深いものだった(「サーカスにはサーカスの真実がある」)。
紙面に浮かんだものがじわじわと胸の奥に沈殿していく。強いインパクトはないけれど、経験的にこういう作品は案外心に残るものだと自分は知っている。