朝吹真理子 / きことわ

朝吹真理子 / きことわ (141P) / 新潮社・2011年 1月 (110221−0223) 】



・内容
 永遠子は夢をみる。貴子は夢をみない。葉山の高台にある別荘で、幼い日をともに過ごした貴子と永遠子。ある夏、突然断ち切られたふたりの親密な時間が、25年後、別荘の解体を前にして、ふたたび流れはじめる―。第144回芥川賞受賞。


          



いかにも純文学然とした超然の佇まいの 『流跡』 のあとだけに、これも抽象難解な作品かもと警戒していたのだが、タイトルの柔らかい語感が表しているとおりに、意外に普通に読める小説だった。
二人の登場人物、貴子(きこ)と永遠子(とわこ)で「きことわ」。二つの名前をくっつけたポップな造語のように見えて、万葉か古今集の中の一節にありそうな‘雅’の響きを感じさせるのは、著者のセンスの一部だろう。たぶんこの人は耳が良い。葉山の別荘を舞台に過去と現在を往還する二人の心象風景が描かれるだけ。淡々とした静的な描写が続いて平面的になりがちなのを、音感の冴えをうかがわせる文章が救っているように感じた。



著者は二十代半ば。物心ついたのはすでに平成の世だったはずだが、この作品は昭和の色濃い物語になっている。レコードや両切り煙草、顕微鏡、砂時計などの小道具は昭和の名残を平成の今に文学アイテムとして機能させているようにみえる。現在と二十五年前の過去を混在させつつも、回想と記憶に表れる昭和時代のアナクロイズムが現在の場面にやや勝っている。
直木賞系の作家なら二十ページぐらいで終わってしまいそうな話をまるまる一冊に引き延ばすのを、さすが芥川賞作家というのは皮肉だけれど、意識の流れや揺らぎでこれだけ引っぱってしまえるのも、この作家が若いけれど実はけっこうタフでしぶとい面があるのではないかと思わせられた。
カップラーメンが出来上がるのを待つ三分が長いという貴子と永遠子の会話から、夏の盆踊りの日に来た浴衣の記憶、永遠子の娘が見た幽霊の夢、星の歳差運動へと話をつなぎ、なおカップラーメンの容器は半透明であるべきで、三分もあれば宇宙の基礎だってできるのだと語る。ここに挟まれるエピソードは本当はもっと長かったのではないかと疑うのだが、いくら何でもラーメンがのびてしまう。それでいくらか削ったのではないか…(笑)。この作品全体のイメージの連想を凝縮したような面白い三分間だった。



『流跡』でもそうだったように、珍しい単語や語彙へのこだわりは大衆小説慣れした頭には新鮮に映る。
〈からがる〉、〈疾く過ぎる〉、〈生を歴る〉、〈凝った記憶〉……。「疾く(とく)」も「歴る(へる)」も「凝る(こごる)」も辞書を引くまでもなくPCの変換候補にちゃんと出てきた。〈からがる〉は作中に幾度か使われている本作の象徴的なキーワードでもある。
いうまでもなく生活環境=言語環境なので、フランス文学一家に育てばそれなりに言語感覚は高いだろうと推察していたのだが、ここには彼女独自の日本語の感性がある。それは感覚的、遺伝的なものではなく、鍛錬と錬磨、精査の結果、体得したものであるらしいのが文章から読める。
食品も工業製品もみなそうであるように良品づくりは原材料の精選に始まる。いうまでもなく小説の原材料は言葉であって、この作品はまずは素材の良さをアピールしたものでもあった。



芥川賞というは新人賞の一つである。どこがというのではなく、若々しさや未熟というのでもないが、才能の片鱗の見せつけ方も含めて新人作家らしさはたしかにあった。しかし、それと同時に‘朝吹真理子らしさ’もすでにここにはあるように思う。それは四半世紀の時間処理に発揮された技巧というよりは、悠久をめぐる優美なるスピード感、のようなものだ。
今回の芥川賞ではもう一つの受賞作が私小説を公言しているのだが、実はこの『きことわ』も外見的には私小説風だ。ただ、この作品の過半を占める過去部分が自身の直接体験ではない前時代であることを考えると、挑戦的な執筆作業だったことだろう。
まだ助走段階。跳ぶのはこれからだという気がする。ドラマもメッセージもなくとも、書くことが意味を孕んで作品として成立させてしまう、そんな可能性へと挑戦を続けていってほしいと思う。
デビューに立ち会いながら、その後も読み続けられる作家は案外少ない。今作は古風で上品なところが目立ったけれど、この人の‘平成のアイテム’となる新作を読める日を待ちたいと思う。