ジョー・ウォルトン / 暗殺のハムレット -ファージングⅡ-


ファージング』読んでやるッ!と鼻息を荒くしていたのに、なぜか三部作の第二部を読み始めた自分なのであった…

どうせ読むなら、といつもの「読書のプチ・イベント化」癖が頭をもたげてきて、またしても面倒くさいことを思いついた。
 ①映画『英国王のスピーチ』を観る…『暗殺のハムレット』の時代設定は1949年、この‘英国王’ジョージ六世の時代だ
 ②『鷲は舞い降りた』も読む…ナチス特殊部隊のチャーチル誘拐作戦を描く

ま、これだけなんだけど。今月はこれで終わっちゃいそうな気がする…


          



【 ジョー・ウォルトン / 暗殺のハムレット -ファージングⅡ- (481P) / 創元推理文庫・2010年 7月 (110308−0313) 】

HA'PENNY by Jo Walton 2007
訳:茂木健



・内容
 ドイツと講和条約を締結して和平を得たイギリス。政府が強大な権限を得たことによって、国民生活は徐々に圧迫されつつあった。そんな折、ロンドン郊外の女優宅で爆発事件が発生する。この事件は、ひそかに進行する一大計画の一端であった。次第に事件に巻き込まれていく女優ヴァイオラと刑事カーマイケル。ふたりの切ない行路の行方は―。壮大なる傑作歴史改変小説、堂々の第二幕。


          


“To be, or not to be. That is the question.” ハムレットのこのセリフは『英国王のスピーチ』にも出てくる。吃音癖から人前で演説できないことを悩むヨーク公(コリン・ファース演じる主人公・後にジョージ六世に即位することになる)が異端の言語療法士ライオネルのもとを訪ねたときに、最初のセラピーでこの部分を朗読させられるのだ。
貴族出身ながら独立して演劇の世界で生きてきたヴァイオラ・ラークの新作は「ハムレット」。男女を逆転させた配役の芝居で、彼女が女性版ハムレットを主演することになった。その公演初日にヒトラーはじめ英独同盟の要人が訪れるらしい。ファージング講和と呼ばれるその条約に抵抗する組織が目論むヒトラー暗殺計画に彼女も巻きこまれていく……
ユニオンジャックとスワスティカ(ナチスの鉤十字紋章旗)が並んで掲げられているのを目にしたらショックだろう。おそらく大半の読者が望む、そんな「ありえない」、あってはならないイメージの破壊へと向かって物語は突き進む。
まさに「生きるべきか死すべきか」を問いながら、作中のハムレットヴァイオラの心境が重なっていく様が見事だった!

事実上わたしは、三つの世界を忙しく往復していた。デブリンの世界でのわたしは、暴君の暗殺を目前にしつつ彼を愛しており、だがそのことは絶対に口に出さないよう注意していた。アントニーの世界では、もちろん女優としての演技に集中し、ハムレットの世界に入ったときは、王女としての矜持を表現しようと努力しながら、レアティーズとの決闘で死ぬ運命に甘んじた。


第二次大戦の歴史改変物というと、何といってもディックの『高い城の男』が思い浮かぶ。戦争が終わって日本がアメリカを支配しているあの作品は過去の話であるはずなのに、どこか未来的なシュールSFだった。しかし、この『ファージング』にまったくSFらしさはなく、むしろ古き佳き英国ミステリの雰囲気が漂う。ヒトラーチャーチルら実在の人物を臆面もなく登場させてしまうあたりもいかにもイギリス流という気がするのだが、もしも歴史が変わっていたらと想像したときのアメリカ人とイギリス人の違いが、この二作によく表れていると思う。『やんごとなき読者』とか、英国は現・女王陛下だって小説や映画にしちゃう国なのだ。
『異星人の郷』に苦労させられたので、これはどうかな?と不安もあったのだが、冒頭からテンポの良い会話につり込まれた。特に女性同士の会話が上手いと思ったら、名前は「ジョー」でもこの著者は女性なのだった。日本語訳は男性なので、訳が良いということでもある。



上演に向けて芝居の稽古に励むヴァイオラの一人称パートと、爆弾事件の関係者を追うスコットランドヤードロンドン警視庁)のカーマイケル警部補の三人称のパートが交互に描かれる。二つのパートがだんだん接近していって最後に「ハムレット」公演初日の劇場で緊迫の瞬間を迎えるという王道パターン。
ヴァイオラの方では貴族、社交、演劇界と彼女の五人姉妹(全員シェークスピア劇の登場人物名!姉はヒムラーの妻という設定にもびっくり!)の愛憎が、カーマイケルのパートではこのファージング条約下の社会状況(ユダヤ人とコミュニストへの迫害や同性愛禁止などの社会規制)がそつなく語られていく。上司から有能ではありながら煙たがられているカーマイケルの苦悩ぶりも手に取るようにわかりやすく描かれている。犯罪者を追いながら、彼の職場環境には注意すべき敵も多く、この事件が解決したら辞表を出すつもりでいるのだった。彼はまだ二十台後半らしいのに、すっかり老成しているように見えるのもなんだか気の毒で哀れだった。(彼の同居人ジャックのなよなよした言葉づかいにはカーマイケルならずとも男心をくすぐられる…笑)

ヒトラーがロンドンを訪問するという話は、警部補さんもご存じだと思います。ワグナーの『パルジファル』を観るついでに、国王やノーマンビー首相と会談することになってますよね。実をいうとヒトラーは、この『ハムレット』の初日にも来るんですよ。第三帝国の総統が、イギリスの首相と一緒にイギリス文化の精髄を鑑賞するんです。まもなく公式に発表されますが、それまでは秘密にしていろといわれました」


片側に犯行グループ、もう一方に警察の捜査目線があってミステリ風の展開を見せるのだが、途中であっさり謎解きは放棄されるし、どんでん返しも起こらない。それでもまったく弛むところがないのは、それぞれに意に反して望まぬ行為へと駆り立てられていく主人公二人の状況描写が巧みだからだ。
正義を標榜しながらも、スコットランドヤードそのものが巨大な(そして、伝統的な階級の)権力構造の中にあるのであって、カーマイケルの葛藤と屈折は苦々しく迫る。自ら捨てたはずの貴族の称号につきまとわれ、姉妹との関係からも逃れられないでいるヴァイオラの、自分が今いる状況境遇すべてが芝居に思えてくるという述懐も生々しい。二人ともにこれで良かったのかと呻かせる皮肉めいた終幕まで、実に英国的だった。これはSFやミステリのジャンルを越えた、ヴァイオラとカーマイケルの心理ドラマなのだった。
― 人生はただ歩き回る影法師、哀れな役者だ。出場の時だけ舞台の上で、見栄をきったりわめいたり、 そしてあとは消えてなくなる ― シェークスピアマクベス


ウィットに富む会話の中に、近代英国史トリビアが次々出てくるのも楽しい。ウォリス・シンプソンというアメリカ人女性(ジョージ六世の兄で前王・エドワード八世の愛人…『英国王のスピーチ』にも登場する)のことにちらりと触れていたり、リヴァプールを狙ったドイツ空軍がアイルランド誤爆した実話や、英国−アイルランド/IRA絡みのエピソードも、英国趣味全開で楽しめる。巻末の訳注も丁寧に書かれていて全部じっくり読んでしまった。
素直に第一部から読まなかったことを後悔している。