ジョー・ウォルトン / バッキンガムの光芒 -ファージングⅢ-


食事の場合には「食が進む」と言うけど、読書の場合には何と言うのだろう。「頁(ページ)が進む」…? とにかく、相性が好いのか何なのか、『ファージング』はどんどんすらすら読めてしまう。基本的に自分は読むのが遅いのに、これは‘別腹’ということか。

またまたビンゴ!だったのは『英国王のスピーチ』で王位を捨ててアメリカ女と駆け落ちした、実在のエドワード八世(ジョージ六世の兄)が、この歴史改変小説では意外な形で帰国を果たすのだ。それどころか最後にはジョージ六世の娘さんであらせられる、あのお方までお出ましになられて……!



【 ジョー・ウォルトン / バッキンガムの光芒 -ファージングⅢ- (494P) / 創元推理文庫・2010年 8月 (110321−0327) 】

HALF A CROWN by Jo Walton 2008
訳:茂木健



・内容
 ソ連が消滅し、大戦がナチスの勝利に終わった1960年、ファシスト政治が定着したイギリス。英国版ゲシュタポともいうべきザ・ウォッチ(監視隊)隊長カーマイケルに育てられたエルヴィラは、社交界デビューと大学進学に思いを馳せる日々を過ごしていた。しかし、そんな彼女の人生は、ファシストのパレード見物に行ったことで大きく変わりはじめる…。すべての読書人に贈る三部作、怒涛の完結編。


          


前作『暗殺のハムレット』から十年ほど時は進んで1960年、モーガンビー首相とヒトラー両名の同時暗殺を阻んだカーマイケルは、ファージング体制下でユダヤ人と反体制活動家を取り締まる監視隊長に昇進していた。ファシズムの圧力に屈してきた彼は任務に忠実な風を装いながら、裏で密かにユダヤ人を国外に脱出させる活動も続けていた。
きな臭い政治と警察権力の抗争内部にいる彼のパートが三人称で、もう一人の女性主人公が華やかな社交界を軟らかな一人称で語るという、‘ファージング・スタイル’が今回も踏襲されている。
その女性、エルヴィラはかつての部下で殉死したロイストン警部の一人娘で、十年に渡ってカーマイケルが養女として育ててきたのだった。18歳になった彼女はオックスフォード進学と上流階級にデビューする式典を目前に控えているのだが、ひょんなことから体制側からクーデター計画への関与を疑われ、さらにカーマイケル叔父の秘密を知ることになって、時勢に巻きこまれていくのだった。

無辜の民がそんな目に遭ってはいけないという信念から、カーマイケルは影の監視隊を密かに組織したのだが、そのような運命がエルヴィラにふりかかるのは、他の人の何十倍も何百倍もあってはならないことだった。エルヴィラは太陽と真珠、サクラソウ、そして女王との対面を心ゆくまで満喫しなければならない。そして彼女にその機会を与えてやるためであれば、カーマイケルはいかなる努力も惜しむ気はなかった。


結末に深く関わることになる物語の背景として、18世紀から続く英国上流階級の伝統行事‘デビュー’(Debutantesデビュタンツ、Queen Charlotte Ballクイーンシャーロットボール)が大きく扱われていて、これは日本人(自分のような労働者階級)には縁遠く、ほとんど知ることができないのでとても興味深かった。
18歳になった良家の子女は女王陛下に拝謁することで結婚適齢期を迎えた「レディ」として認められ、その日から(上流の)社交界デビューが許される。それまでは家族同伴でなければならないが、この儀式のあとは男性にエスコートされてパーティや舞踏会に出席できるようになり(英国では女性一人でのパーティ参加はご法度)、貴族とのおつきあいも夢ではなくなるというのはダイアナ妃の例を持ち出すまでもない。
そんな舞台にエルヴィラが参加するというのが、サイドストーリーとして物語の本筋を支えている。作中に明かされているように、彼女はコックニー訛りの抜けないロンドン下町生まれ。警官(公務員)の娘とはいえ、家柄はけして上流とはいえない。しかも孤児である。
そんな彼女がどうしてバッキンガム宮殿に招待されるのか。そこに、カーマイケルがこれまでいかに彼女を大事に育ててきたのかが含まれているのだった。



エルヴィラの、ある意味で英国人女性としては最高に幸福なサクセスストーリーが進行していて、実現直前なのに権力の横暴によって邪魔される。一度は彼女のとっておきの切り札‘A’エースのカーマイケル叔父が駆けつけて救出するものの、二度目はそのカーマイケル自身も窮地に立たされていて、エルヴィラは絶体絶命の崖っぷちに追いこまれる。
今作はカーマイケルとエルヴィラの二人が父娘関係ではあるけれど、やはり実の親子ではないという微妙なスパイスが実によく効いている。ファージング体制の圧力を嫌悪しながらも、自分の権力を行使することにはやぶさかではないカーマイケルが危ない綱渡りをして、ジャックを失いながら死ぬにも死ねない状況はもどかしくて、やはり苦々しい。
近くにいるはずなのに引き裂かれた状況で、それぞれ別々の苦境に陥ってしまうのは、二つの線が最後に交錯する『暗殺のハムレット』とは違う展開なのだが、エルヴィラにはもう一つ、最後の切り札があった。そのカードは‘A’ではなく、‘Q’なのだった!

今日のため、わたしたちは何ヶ月も準備と練習を重ねてきた。なぜこの機会を、もっと意義あるものにしてはいけない?そのせいでどれほど最悪のことが起ころうとも、どっちみちわたしの未来には最悪の結果しかないのだ。それに、もしやつらがバッキンガム宮殿からわたしを連行しようものなら、それはそれで大スキャンダルになるし、少なくとも世間の人たちは大いに関心をもってくれる。その程度であれば、わたしひとりでも充分にできるのだ。


やはり英国ではエドワード八世(ウィンザー公)は今でも嫌われているのだろうか? 前作では軽く悪口を言われる程度だったのに、本作では完全に悪玉に仕立てられていた。
また、直接的な描写はないけれど、ユダヤ人への差別、というほどではなくとも嫌悪感のようなものが英国にも厳然としてあるらしいのがうかがわれた。エルヴィラも当初は彼らの実生活や収容所の実態を知らぬままに、噂を信じてユダヤ人の強制連行を否定していないのだ。わけもわからず逃亡せねばならない彼女を匿ってくれた家族との触れ合いから、彼女のユダヤ人への感情が変化して、それがラストにつながる。社交デビューによってではなく、叔父の仕事も含めて政治体制には盲目だったエルヴィラが社会に目を向けるようになる、彼女の成長を通した物語としても読めた。
脇役たちも良い。カーマイケルに旨いお茶を煎れてくれるミス・ダシー、ジャック、エルヴィラの実母と連れ合いのレイモンド、それに前作に続いて登場のアイルダンド人のアロイシャス…

英国王のスピーチ』も良かったが、「ファージング」の最後が‘女王陛下のスピーチ’で終わるとは…! 良いタイミングで読み、観れたと思う。読み終えて‘GOD SAVE THE QUEEN’を歌ってしまった。
(スピーチの力… なぜ日本の指導者は記者会見だけで終わってしまうのか。どうして直接国民に向けてまっすぐメッセージを発しないのか?)


これで三部作のうち、二・三部を読んだ。変則的な形になってしまったが、カーマイケルはファージングで何をしたのか。なぜ首相や警部主任に弱みを握られているのか。やっぱり知りたい。第一部『英雄たちの朝』も読まねばなるまい。そう思いつつ、しばらくの間「エースは温存しておく」。少し時間を置いてから読むつもりだ。