藤島 大 / キャンバスの匂い


映画『ザ・ファイター』を観てきた。
うだつの上がらない三十代のボクサーが家族とのしがらみ、葛藤を振りはらって、めぐってきたチャンスに喰らいつこうとする。鼻の奥がつんとする瞬間が何度かあった。実在のボクサー、ミッキー・ウォード役マーク・ウォールバーグの熱演。彼の兄ディッキーに扮して本年度オスカー助演男優賞を獲たクリスチャン・ベールの強烈な存在感。制作陣の熱意のこもった、良い作品だった。
でも、…。家路のハンドルを繰りながら、いま観たばかりの映画を振り返る。「F」で始まるフォーレターワードのセリフが多かった。スウェットの丸首に滲んだ汗の染み。縄跳びとパンチングボール。ヘッド、ボディ、ヘッド。ボクシング・ムービーに不可欠な熱と最低限の詩情はあったけど、少々暑苦しく感じたのも事実だ。
ボクサーが流す汗は熱いのばかりではないはずだ。絞りに絞ってようやく一滴二滴肌に浮かぶ減量中の汗、死の恐怖に凍りつく冷たい汗だって、きっとこの競技に欠かせない一部だ。見えない「冷」があるからこそ、リングはよけいに「熱」をはらむ。つまり、この作品には実話には絶対にある冷徹な「ボクシングの科学」は省かれていた。もっとも、映画はある部分を削いで、何かを誇張するものではあるのだけれど(そこが本とのいちばんの違いだ)。だからドラマとしては良いんだけど、スクリーンからキャンバスは匂ってこなかったのだ。


          


大好きな藤島大さんのスポーツコラム集を二冊読む。



【 藤島 大 / キャンバスの匂い (427P) / 論創社・2009年 4月 (110407−0410) 】



・内容
 散って、なお尊し。無名の4回戦ボクサーから世界チャンピオンまで― 『ボクシング・ワールド』連載を書籍化した叙情的コラム集。


          


東京・中日新聞火曜夕刊に連載の「スポーツが読んでいる」はまだ続いている(もう何年になるんだろう?)。それに加えて週刊サッカーマガジンでも藤島さんの文章を読めるようになった。マガジンの編集方針は自分に合わないので滅多に買わないから(FC東京が降格したんだから編集長も降格すべきじゃないのか?)、申し訳ないけど、立ち読みだけさせてもらっている。サッカーダイジェストだったなら毎号買うんだけどなぁ…。 マガジンの「無限大のボール」もいつかまとめて出してもらえたらありがたい。
本書はボクシング専門誌の連載コラムをまとめたもの。目次を数えたら、その数、実に124本。九十年代終わりから内藤大助あたりまでのほぼ十年間、ボクサーの有名無名を問わず、藤島さんが生で見つめたリングの記録集だ。
まずこのことが誰より藤島さんらしいと思うのだが、ほとんどが後楽園ホールノンタイトル戦だ。ラスベガスやアトランティックシティまで取材に行っているのに、メインイベントではなく前座試合を書いてしまう。自分はボクシングファンではないから当然、書かれているボクサーの大半は初めて目にする名前ばかり。
なのに、読めてしまう。そして、期待どおりの名フレーズ連発に鼻の奥がつんつんしっぱなしになるのだ。いつものように気に入ったところに付箋紙を貼って読んでいったら、嬉しいことに途中で本の天が紙の密林になってしまって、付箋の用をなさなくなってしまった。開高健のエッセイ集以来のことだった。

 喜怒哀楽の凝縮はスポーツの特権だ。スポーツ報道に従事する者の冥利でもある。限定された空間と時間に人間の感情はぐんぐん圧を上げる。その目撃者となれる。そして、喜怒哀楽のもう一つ先の地平には「喜怒哀楽にも収まらぬ感情」が、ジャーナリストの取り置き言葉を遮断するかのようにある。


まず書き下ろしの「プロローグ」に寺山修司の短い引用があった。『戦士の休息』の一節。うん、読んだ覚えがある。
それから本篇を読み進めていくと、三島由紀夫のボクシング評に触れた記事が出てきた。「五月人形みたいな原田」、だな(ニヤリ)。はい、その本、持ってます!
会社の旧・読書クラブの本棚にあった三島由紀夫『荒野より』は現在自分が大切に(無断で)自宅保管している。昭和四十二年、中央公論社刊の初版。短篇小説が三篇、エッセイ、書評など新聞雑誌に発表された文章を収録した作品集。東京オリンピックの観戦記を含む「スポーツ」と題された章に、昭和四十年から四十一年に報知新聞に掲載されたファイティング原田のタイトルマッチ三戦に取材した作品もあった。
本書で藤島さんも引用しているが、自分も大好きな一節なので書いておこう。

 “予想は圧倒的に原田の不利だったが、私は予想よりも人間のほうに賭ける。われわれは自分に賭けるときそうしているのだから、他人に賭けるときもそうするべきだ。” ― 「原田ジョフレ戦(一九六五年五月十八日)」より ※三島の原文は旧仮名遣い
(三島は三十代でボディビルを始め、その後、短期間だがボクシングに勤しんだ時期があった)

          


そして、F.X.トゥール著『テン・カウント』を採り上げた記事もあった。これはいつか「スポーツが呼んでいる」に‘映画も良いけど原作も’と題して書かれていたものの二次使用かと早合点してしまったのだが、別原稿でこちらが先だった。自分が中日新聞誌上で読んだのは、この‘史上最高のボクシング小説、ソニー・リストン級!’が後にイーストウッドの手で映画化され、『ミリオンダラー・ベイビー』と改題されてハヤカワ文庫から出たことを伝えた記事なのだった。
藤島さんはこの小説を紹介したコラムを、「次の瞬間、ボクシングを愛する者の血はごぼごぼと噴きこぼれる」と結んでいるのだけれど、ろくにボクシングを知らない者の血だって、噴きこぼれたのだ。試合続行のために、腫れてふさがったまぶたを切るカットマン。数分の間だけ出血を止める千分の一希釈のアドレナリン溶液の調合法。汗で蒸れてふやけた柔らかい手……
自分が『ザ・ファイター』に心底で痺れなかったのは、たぶん『ミリオンダラー・ベイビー』と藤島さんの解説文を前に読んでしまっていたからかもしれない。

          


 苛烈な減量、恐怖の克服、そりゃあ、しんどいさ。でも、勝つか負けるかドローか、その絶対の前でこそ、人間は自由だ。嘘とエクスキューズのまかり通る世間で物理的自由を得たところで「絶対の自由」にかなうものか。


‘読むボクシング’の話ばかりになってしまったが、要するに、ボクシングをただのスポーツとしてではなく、詩としてとらえる物好きな夢想家がいつの時代にもこの競技の周縁にはいるということだ。そしてその連中はけっこうな確率で名文家らしいのだ。(もちろんパパ・ヘミングウェイノーマン・メイラーも同じ隊列にいる)
名文家は名文家を呼ぶ。藤島大の中に、寺山修司三島由紀夫もいた。あぁやっぱり、そんな気がする。勝手な思いこみに過ぎないかもしれないけれど、自分と重なる読書体験を知って、ますます好きになった。もちろんそういう共感を得られなかったとしても、この人の「知と熱」を言葉にした文章を読むのは、いつだって大いなる喜びなのである。
一晩で何億ドルも手にするスーパースターも、地方ジム出身、戦績はまだ0勝2敗の貧相な青年も同じ筆致で書けるのは、彼が競技者のハートと詩人の目を持っている証拠だ。
今日、四月十八日の「スポーツが呼んでいる」は、二人の前・世界チャンピオン、辰吉丈一郎六車卓也が神戸で行った震災への募金活動のレポートだった。片や四十にして現役続行中、六車氏は引退後サラリーマンとなった。二人の生き方の違いを述べ、しかし変わらぬボクシングへの敬愛を示した、これまた素敵な文章だった。

 勝者は絶対に勝者であって、敗者もまた絶対の敗者だった。さらに泣きたくなるほど嬉しいことに、これほどの修羅の場に、終始、尊厳と尊敬は妖精のごとく漂っていた。リングの深い森に棲みついた妖精。見事なボクシングの時間である。
  初回。長谷川穂積は、自身の最良の資質を王者に伝えた。

『ザ・ファイター』はミッキー・ウォードの再起までを描いているのだが、すでに中年にさしかかっていた彼のボクサーとしてのハイライトは、実はまだその先にあるのだった。
対アルトゥーロ・ガッティ三連戦。 映画を観た翌晩、YouTubeで Micky Ward vs. Arturo Gatti のダイジェスト動画を見た。痺れた。壮絶な撃ち合いとか意地と意地のぶつかり合いとか、どんな言葉も陳腐なものになる。あらゆる形容詞を無力化する、そんなファイトだった。
どんなに撃っても倒れない相手だと互いにわかっていながら、なおも撃ち続け、パンチを受けとめ続ける。それしかない。倒すとか倒されるとか、もうとっくに勝負の意識はどこかに消えてしまって、ゴングが鳴らなければ永遠にそうしていそうな二人だった。彼らのタフネスは超人的としかいいようがないのに、なぜか、どうしようもなく人間くさく映って仕方がなかった。ボクシングとは、人間にしかできない営みなのだ。いや、言い換えよう。人間だからこそできる営みなのだ。(そして、それを芸術というのだ)
痺れて、しばし放心、やがて決壊した。あのミッキー・ウォードはここまで行ったのだ。三分×10ラウンドの一戦をじっくり見つめることは、映画の二時間より、きっと知性を磨く。それでも、この映画の株は1ランク上げても良いと考えなおした。
続編が出てシリーズ化する映画に面白いのはないが、『ザ・ファイター2』なら迷わず見に行く。