藤島 大 / 楕円の流儀


【 藤島 大 / 楕円の流儀 (376P) / 論創社・2011年 1月 (110411−0415) 】


・内容
 独自性の喪失、無策への失望、再生への期待…ジャパンのこの10年は“空白”なのか。日本ラグビーの危機とその可能性。ジャパン、早稲田、明治などの他、新聞・HP掲載コラムも精選収録。


          


『キャンバスの匂い』と同じく論創社から刊行された、こちらはラグビー・コラム集。
二年前の『ラグビー大塊』も素晴らしい内容だったので期待して読み始めたのに、本書前半はなんだか藤島さんの筆が湿っている。いつもの大らかなユーモアがない。言葉を選ぶのに苦心している。ため息を吐きながら何度も消したり書いたりした跡が黒々と紙面に残っているような。なにしろ、あの明晰な文才が「抜本改革を求める」とか「日本のラグビーは岐路に立っている」なんて身も蓋もない一文をもって閉じるコラムが並んでいるのだ。
原因は「ジャパン」だった。ラグビー日本代表、桜のジャージの「ジャパン」の低空飛行のせいだった。
最悪の英国遠征、ウェールズに8-100、スコットランドに0-98で負けた。代表選手が歓楽街で暴力沙汰を起こした。復活を期して招聘したフランス人監督が、実は母国のクラブチームも兼任していた。
2000年代前半のジャパンは代表の名に恥じぬチームとは言い難かったのだ。

 誇りと意地、肉体と知性はせめぎあい、かすかなミステイクが大波に化けて大局を動かす。まさに極上のスポーツ、プラチナにして絹にして鋼鉄の戦いだった。


苦言、また苦言。愛するラグビー代表と協会組織(会長は現在まで長らく森喜朗・元首相だが、サッカー人としては疑問を感じる)に対して、初心者に諭すがごときに当たり前のことを書かねばならない痛恨が漂っている。高校、大学、社会人、プロ。それぞれの現場には燦めくラグビーの瞬間があるのに、ピラミッドの頂点にあって全ラグビー人の希望と誇りであるべき代表の不甲斐ないていたらく。何よりラグビーへの「愛」が足りない深刻な欠陥を嘆く。
15人という少なくない人数でチームが構成されるラグビーは他の集団競技よりも国民性と文化が反映されやすい。また情熱の温度差は低い方へと伝搬しやすい。
ようやく元オールブラックス、ジョン・カーワンをヘッドコーチに迎えて、とりあえず悪循環は断たれ、現在舵は修整されつつあるようだが、それでもまだ前途は明るくないようだ。日本が世界の巨人たちに挑むには「世界一早くて低いタックル」以外にない。答はわかっているはずなのに、なかなか確立されない。
藤島さんがジャパンの輝きを記す日はいつか来るのだろうか。ラグビー・ファンというよりは一読者として、来てもらわないと困る。藤島大の最高傑作はその日に書かれるに決まっているからだ。



その日のために、シーズンになれば氏はせっせと花園や秩父宮に足を運ぶ。海外列強の決闘現場にだって立ち会う。いつかジャパンも、の想いが常に胸にある。
救われるのは後半は、ランダムなテーマに‘藤島節’全開の名コラムが収められていること。「ジャパン」の足枷から解放されると、まったく別人のように筆致は優雅で豊饒なのである。そのあまりに鮮明な対照がまた面白いのだが。
やはり本書にも「スポーツは呼んでいる」が初出の名篇が何本か収められていた。 『ラグビー大塊』 でも書いたマイ・ベスト ‘支配者との大一番’ をはじめ、英BBCの名コメンテーター、〈Voice of Rugby〉マクラレンの訃報 ‘偏りなきラグビーの声’ 、日本では知られていないラグビー界のビッグイヴェント、全英ならびにアイルランド代表の合同チーム‘ライオンズ’British & Irish LIONS の四年に一度の南半球ツアー‘報じられぬ大遠征’…… 英国四協会絡みの記事は既読とはいえ、何回読み返してもその名調子にはいつも微笑させられる。
あらためて思うのだが、知識と知力を総動員しなければラグビーを書くのは難しい。それゆえに日本のメディアがこの競技に積極的ではない(ラグビー=マイナースポーツのまま)という事実も半分は当たっているだろう。ライオンズについて書こうとすれば、現地の新聞や書籍に頼るしかないのだ。オックスフォード出身ではなくとも、藤島さんはまぎれもなく英国文化の薫陶を受けている。

その‘藤島式ラグビー史観’の原点は70年代のウェールズ代表にある。「ラグビー史上最高のトライ」ガレス・エドワーズ、「ラグビー史上最高のサイドステップ」フィル・ベネット。ラグビーハートランドウェールズ西部の谷間、ロンダ渓谷が輩出した名手たち……。当時のウェールズに関しては『ラグビー特別便』がより詳しいのだが、さて、ここでふと疑問がわく。まるで現地で目撃したかのように鮮やかに描写されているけれど、このころ藤島さんはまだ子供で、生で見ているわけがないのだ。それをこれだけの文章に著してしまう。いったいどれだけの英語原典を読み漁ったのだろう。ラグビーを読ませる名人は、まず自分が読んだのだ。「楕円の流儀」は「ウェールズの流儀」でもあるのだった。


          

 カーウィン・ジェームス。当時最高のコーチである。やはり炭坑の村に生まれ努力で教育の機会を得てロシア語を習得した。スクラムの複雑なメカニズムを「チェーホフを引用して」説明できた。
 ウェールズの文化を熱烈に愛し、英国王室からの叙勲を拒否した。白人優位政策(アパルトヘイト)の南アフリカとの対戦では、選手を送り出したあと自分はロッカー室に残り「試合を見ないことで」抗議の意を示した。


すべては愛する「ジャパン」のために。ラグビーならではの文化・習慣を紹介するコラムも良い。
試合後に両軍の選手が入り乱れてビールを酌み交わすカマラデリィ(同志愛)、性善説に基づいてフェアにプレーし、多少のレフェリーの誤審も許容する紳士的な寛容の精神(スロー映像よりも自然の目を)。タッチジャッジを両チームの前年度キャプテンが務める伝統(バリバリの現役代表選手が線審なんてこともあるらしい!)……
今年9月にはワールドカップ2011・ニュージーランド大会がある。日本は開催国優勝を目指すオールブラックス、フランスと同組にエントリーしている。
八年後、2019年のワールドカップ日本開催は、はたしてどれぐらい認知されているだろう。世界からはきっと大震災からの復興の試金石としても注目される大会になるだろう。ここに向けて、もう一度国力を上げていく。そうあらねばならない。そうでなければ開催国ジャパンの躍進はありえないし、大会の成功もない。国力=ラグビー国力。断じてそれはラグビー愛好者だけの問題ではない。これからの日本人全員の精神の問題なのだ。