菅 淳一 / 1967 クロスカウンター 


四月はまずこの作品を読む予定だったのに、かなり脱線というか回り道してしまった。いつのまにかボクシング月間になってしまった…
予感はしていたんだけど、これが良かった! この本も本年ベスト級の一冊。



【 菅 淳一 / 1967 クロスカウンター 雑草と呼ばれたチャンピオン小林弘 (280P) / 太田出版・2011年 1月 (110423−0428) 】



・内容
 「雑草の男」と呼ばれ、漫画『あしたのジョー』のモデルとなったボクサー、小林弘(元WBAWBC世界スーパーフェザー級チャンピオン)。今なお語り継がれるテクニシャンの半生が、熱のこもった筆致で待望の書籍化。小林弘の生き様を後世へと伝える渾身のボクシング・ノンフィクション。


          


子供の頃、よくボクシング中継を見た。ガッツ石松が王座から陥落した試合を祖父と一緒に見た記憶がある。祖父が亡くなってからもしばらくは、世界戦がある晩のチャンネル優先権はボクシングにあるのが我が家の暗黙の掟だった。具志堅、渡嘉敷、渡辺二郎薬師寺、辰吉、鬼塚あたりまで。自分も家人も特にボクシングを好きだったわけでもないのに、タイトルマッチは家族みんなで見た。
有名な日本人世界チャンピオンが何人かいて、年に何回かは‘必見’のタイトルマッチがあった時代。小学生でも「ボクサー」といえば何人もの名前を挙げることができた時代だ。自分は大人になってからはすっかり見なくなってしまったのだが、今でもボクシングは家庭の団らんの場で見られているんだろうか。(下記・物の本によると、現役日本人チャンプは実に六名もいるのだ!)
本書『1967 クロスカウンター』は元・世界チャンピオン小林弘の評伝にして、‘日本のプロボクシング黄金時代’のクロニクルでもある好著だった。

 あれほどの人間離れした苛酷な試合日程に、心では強く反発したものの、こうしていざ奇跡のように勝利の女神が微笑んでくれると、小林はリング上で観衆に手を振っていても、体が地上から三十センチほど浮き上がっているような爽快感に包まれていた。天国と地獄は実は地続きなのか。吉と凶はあざなえる縄の如しか。


小林という男の人生ではなく、ボクサー・小林弘に焦点を絞った人物伝である。徹底して27歳で引退するまでのボクサー人生の記録だ。ひたすらボクシングに打ちこむ姿を書いてあって、それだけなのが好ましい。
長野県の寒村に生まれ、父親不在の絵に描いたように貧しい生活を送った少年時代の苦境にページを割かない。著者はハングリーとか反骨とかをスポーツの原動力に求めようとしない。ボクサー伝にありがちな喧嘩に明け暮れた不良少年、ストリートファイトのイメージにも距離を置く。生い立ちはプロローグで手短にまとめてあって、本篇第一章は少年がジムの扉を開けるところからである。(「ハングリー精神」なんて言葉は、たぶん本当にハングリーな連中は絶対に口にしないものだ)
驚かされるのは入門からプロライセンスの取得、それからデビューまでの早さだ。無我夢中、馬車馬のように走って過ぎ去る日々のスピード。それは過密日程の試合を重ねて新人王のタイトルからランクを上げていく間も維持された。名が知られるようになってからも、一月に二試合も三試合も、ときには場当たり的に次戦、さらにまた次戦と組まれていく。ボクサーはジム・マネージャーの決定に従うだけだ。人を殴ったことなどないド素人がプロボクサーになる最短の方法がここには書かれているのである。それは高度成長期、誰もが一心不乱に前のめりに走った時代だったからこそ可能だったわけで、健康とか人権とか適性資格とか過重労働とか、厚労省とか文科省とか、保護名目のあらゆる規制と逃げ道があふれた現代では考えられないことだろう。



殺人的に短い試合間隔を消化して、小林はとんとん拍子で階段を駆け上がっていった。
その各ポイントに置かれる試合描写がテンポがあってすごく良かった。特に本書のハイライトでもある、初の日本人同士の世界戦・沼田義明戦(1967年)とタイトルを逸して引退直前のパナマでの「石の拳」、後に世界五階級を制覇する若き日のロベルト・デュラン戦(1971年)の文章は白眉だ。
小気味良い描写でラウンドを再現。一発の威力ではなく、パンチの応酬に対戦相手との駆け引きや消耗度を見量って、リング上の天秤の微妙なゆらめきを活写している。本能的な攻防の一瞬を適確な文にして感情を写す。ボクシング動作を文章に表した好例だと思う。
小林はパンチ力で相手を圧倒するファイターではなかった。クロスカウンターを武器にするディフェンス能力に長けたテクニシャンで、粘り強く計算高く最終ラウンドまで戦い抜くボクサーだった。世界チャンピオンにまで昇りつめた選手にしてはKO勝ちが少ない戦績が示すように、その性格がボクシング・スタイルによく表れたボクサーだった。
言い換えれば、著者はリングの戦いぶりを書いて、その人物像を表現することに成功しているのである。その自信があったから、家庭環境や私生活に言及する必要はなかったのだろう。

四発目の右フックは相打ちになった。ゴツーンと脳の芯からつま先まで痺れる痛くて重いパンチだった。ここがリングでなかったら、すぐに膝を折って両腕でしばし頭を抱え込んでいただろう。しかし、代わりに微笑んでやった。未来の「石の拳」、若きスターの激烈なハードパンチにエールを送ってやった。こっちの右もデュランに少しは効いているはずだ。ナックルに手応えがあった。


オンとオフ。職場とプライベートの線引き。そんなものはここにはない。豊かではないとしても、他の選択肢は目に入らないその自然は現代では得難い幸福のように思われる。
これはいかにも昭和の物語なのだ。多くの若者が加わった全共闘安保闘争の争乱の世相に一切触れずに、ただボクシングに打ちこんだ青春を描きながら、どうしようもなく漂ってくる前時代感が妙に切ない。平成の世、二十一世紀の現在ではほとんどお伽話のようにも感じられてしまう。恵まれない家庭の子供が唯一の救いとしてボクシングを選ぶ。そんな彼が身を粉にしてボクシングに生きる道だってあったっていい、もっと開かれていてもいいと思う。
タレント活動でもしていなければ、元チャンピオンですら一般的には忘れられていく。ましてや早々と自分の才能に見切りをつけてグラブを外した無数の青春の影が彼の背後にはあるのだ。引退前の小林がパナマで大歓迎を受ける場面では、どうしたってこの国のボクサーという人種への敬意の薄さを考えないでいられなかった。
喩えは最悪なのを承知で書くが、ふだんは進んで聞くことはないのに、たまたま耳にした演歌がやけに胸に沁みる。読んでいる間ずっとそんな感じだった。何の接点もなく縁遠い世界のはずなのに、昭和生まれの自分にはどこか懐かしい共感を感じることができたのだが、最近の若者にこの実話が読めるだろうか。彼らはやはり「痛い話」というだろうか。



今日、個人的にわかボクシングブームに合わせたかのような素晴らしいタイミングで出たばかりのこの本を買ってきた。


【 Number Plus ナンバー創刊30周年記念ボクシング完全読本 拳の記憶 】


          


お目当ては(もちろん)藤島大さん−長谷川穂積二宮清純さん−エディ・タウンゼント。それに「クロスカウンターと矢吹丈のいた時代」と題して小林弘氏に取材した木村光一氏の文も興味深い。
それから、角田光代女史の「恋とボクシングと勝ち負けのこと」。なんと角田さんは十年前から輪島功一ジムでトレーニングをしているそうだ! きっかけは失恋……、これが実に良い文なのだ。現在、日経夕刊にボクシング小説『空の拳』を連載中とのこと。これも楽しみに刊行を待ちたい。
巻頭巻末は沢木耕太郎で、彼はまったく好みではないのでスルー。まだ全然読んでないけど、他の記事も力作ぞろいで読み応えがありそう。スポーツ・ノンフィクションの場ではいまだにボクシングは好素材なのがうかがえる。ボクサーよりも、誰がどんな文を書いているか、自分にはそれが愉しみだ。


今年はちっともゴールデンウィークではなくなってしまったのだが、これをじっくり見てみようと思っている。背表紙にサンドバッグやパンチボールの通販広告があって、買ってみようかなと思ったりして……。