開高健 / ロビンソンの末裔


久しぶりに開高健を何か読もうと思い、ほとんど忘れかけていたこの作品を選んだ。再読だが(やっぱり)止まらなくなってしまった。



開高健 / ロビンソンの末裔 (190P) / 新潮社(開高健全作品 小説4)・1973年 (110506−05010) 】



・内容
 終戦直後の荒廃の最中、《食べる》という最も単純な本能に翻弄され、北海道に集団入植した開拓村の人々の、たくましい生活の息吹を描く名作。


          


もともとは学生時代に新潮文庫で読んだのだが、現在は絶版のようである。今回手にしたのは1973〜74年にかけて刊行された新潮社版「開高健 全作品」全12巻の第4巻。全集ではなく「全作品」なのはもちろん刊行当時、まだ殿下はご健在だったからである。
『ロビンソンの末裔』は1960年の刊行。半世紀前。なんと『日本三文オペラ』の翌年である。そうと知ってしまえばどうしてもこの二作を比較してしまうのだけれど、もし『三文オペラ』がなかったなら、これが彼の代表作の座にあったかもしれない。しかし、いかんせん、あの強烈猥雑、アナーキックな狂騒オペラと並べてしまうと、おとなしい印象を免れないのはしかたあるまい。
終戦直後の混乱期、ある一部落の知られざる史実をもとに、という主題の取り方において両作品は姉妹作とも言えるし、住みついた場所が宝の山だった前者と、戦争に倦んでたどり着いた新天地が鍬も歯が立たぬどうしようもない荒地だった後者とは、対をなす二作とも言えるかもしれない。



こけつまろびつ。うろんとした目つき。まっ暗なまなざし。ひだるそうな顔つき。……読み始めると早々に作家おなじみの人物描写に出会って、開高ワールドにすんなり没入。
落ちるだけ落ちたどん底。汗と垢と埃まみれの、人間の形をしているだけの屑袋のような連中の、やけっぱちな、それでも執着する生のすさまじさを妙な明るさで愛嬌あるものとして伝える独特なこれらの言い回しからも、『三文オペラ』との近似を実感できる。もちろん、そんなことは二十年前の初読時には考えもしなかったのだが。
『夏の闇』 ― 入ってきて人生と叫び 出て行って死と叫ぶ ― の元ネタもここに書いてあった!)
やるせない無力感の中にも一瞬きらめいては走る人間の狡智と原始的な欲望。矮小と深遠。一つの言葉に収まりっこない、行き場のない感情が迸ってせめぎ合う。地獄の淵に立ってその先にはもう死しかないというときに至ってなお浮かぶ、絶望的というよりは無邪気に澄んだほほ笑み。懸命であればあるほど滑稽で、必死になればなるほど愚かな営みに映るのに、きっと自分だって似たり寄ったりなのだと思わせられて、心の中でなにかじんわりと分泌されるものがある。いつ読んだって、開高健の小説はどれもそうなのだ。

根株がある、根株をおこす牛がない、熊笹がある、笹は刈っても水がひけない、水はひけても土がまるでやせている……というようなことになってしまうのです。なにを話してもそこへおちこんでいってしまうのです。みんながいっせいに口ぐちに裸電球の下で畑の状態を話しているのを聞くと、薄暗いなかに日本そのものがひしめいて呻き声をあげているように聞こえました。


昨年まとめ読みした大兄のエッセイ集の中には、本書刊行時の自著紹介文もあった。
それによると「頭や神経の人間ではなく“手”の人間を書くことに専念したかった」のだが、結局インテリ臭くなってしまった。「地に足のついた活力」を書くつもりだったので出来には不満、とのこと。なるほど。『日本三文オペラ』が彼の出身地・大阪の実話に材を採り血と実感で肉迫できたのに対し、こちらは空襲や闇市など自身の実体験を反映させた部分も少なくないとはいえ、大部分を取材見聞と資料の後学からの再構築に頼らざるをえなかった(または、そこにエネルギーを注がねばならなかった)ために、手応えも小さかったのかもしれない。登場人物は東京からの移民と役人だけで、‘既存’と呼ばれる先住民(蝦夷地開発初期から住みついた人々やアイヌ民族)の暮らしぶりにまでは踏みこんでないのも、作家らしくない気はする(ストーリーには直接的には無関係だとしても)。それでも読み応えは十分だった。
明治に始まる蝦夷開拓は第二次大戦期には天然資源の確保と食糧増産を目標とする国策として推進された。肥沃な「東洋のウクライナ」の甘言と、土地・住居・農機具付きで農業未経験者にも援助を謳った好条件に誘われて入植希望者は後を絶たなかったようだ。連日連夜の空襲と食糧難ですっかり疲弊しきっていた主人公も家を捨て公務員の職を捨て、妻と子供を連れて上野発の列車に乗りこんだのだった。
ところが、津軽海峡を渡り函館上陸直前に終戦。配置された先は聞かされていたのとはまったく違う、大雪山の麓の手つかずの荒涼たる原野だった。茫々とした土地だけは与えられたが家などない。まもなく早い北海道の冬がやって来る……
開高殿下のキャリアを眺めると、この後彼は小説以外に精力的にルポも発表するようになる。大別すれば、ベトナム以前の、まだ若き開高健。このとき彼は三十歳なのである…



読んでいる間中、ずっと頭の片隅に意識されたのは、東日本大地震被災地の方々の「これから」だった。
焼け野原の東京を捨てる一大決心の末に未開の原野に放り出された‘開拓移民’。獰猛な熊笹の藪を刈り、焼きはらい、やっと開いた土地は種を蒔いても芽も育たない酸性の不可耕土だった。暗渠を切り客土して農業ができるまで数年我慢しろと役人はいうが、何一つ収穫できぬ大地にへばりついたまま、それまで生きていられるものか。東京の農林省が言っていたことと現地旭川の拓殖科の説明はまるっきり違っている。どこに文句を言えばいいのか、どうするべきか…… これは家を失い土地を浸水され、あるいは放射能に汚染された罹災者の心情と重なるのではないか。天災なのか人災なのか、自分たちはどうなるのか。
物語は主人公たち開拓団の代表が国会に乗りこんで大臣に直訴するという展開になる。このあたりが破天荒なエネルギーを放埒なまま暴走させることができた『三文オペラ』と比べて窮屈で、殿下の頭を悩ませたのではないか。この物語でそうなる他なかったように、被災地でもこれから地元住民の切羽つまった嘆願、切実な陳情と、事務手続きをする役人との押し問答がくり広げられるにちがいない。


開高健の長篇は全部読んでいるのだが、短篇にはまだまだ未読がある。少しずつ、全作品読破を目指したい。