ジョー・ウォルトン / 英雄たちの朝 -ファージングⅠ-


この「ファージング」シリーズは歴史改変小説ということになっている。第二次大戦で戦ったナチスドイツと英国が同盟を結ぶなんてありえないと自分は思っていたのだが、先日ひまつぶしに読んでいた、これとはまったく関係のないアラブ関連の本で、興味深い史実を知った。(世界史を学んだ人には常識なのかもしれないが…)
いうまでもなくイスラエル建国の道筋をつくったのは英国なのだが、パレスチナユダヤ国家を建設して欧州のユダヤ人をその地に移住させるシオニズム運動は、ユダヤ人を一掃してしまいたいナチス側の思惑と一致する部分も少なからずあった、とのこと…… エルサレムに「復帰させる」と言いながら実は追い出し「追放する」、あるいは「強制移住させる」。だから、ことユダヤ人をめぐる英独の利害協調というのは、史実としてもまったくありえない話ではなかったらしいのだ。



【 ジョー・ウォルトン / 英雄たちの朝 -ファージングⅠ- (464P) / 創元推理文庫・2010年 6月 (110511−0515) 】

FARTHING by Jo Walton 2006
訳:茂木 健



・内容
 1949年、副総統ルドルフ・ヘスの飛来を契機に、ナチスと手を結ぶ道を選んだイギリス。和平へとこの国を導いた政治派閥「ファージング・セット」は、国家権力の中枢にあった。派閥の中心人物の邸宅でパーティーが催された翌朝、下院議員の変死体が発見される。捜査にのり出したスコットランドヤードのカーマイケル警部補だが―。傑作歴史改変エンターテインメント三部作、開幕。


          


ファージング第一部をやっと読んだ。二、三部を先に読んでしまって、通底していたカーマイケルのスコットランドヤードと政府に対する鬱屈した感情の原因が、やっとはっきりした。
パーティーが開かれた貴族邸で起こった要人の暗殺事件。死体にはダビデの星が残されていた。ユダヤ人の犯行に見せかけようとする偽装なのは明らかなのに、屋敷にいた唯一のユダヤ男性に嫌疑がかけられる。カーマイケルの捜査は犯人を追うというより、その男の無実を証明する作業へと変わっていくのだが、彼のつかんだ証拠は次々消されていき、たどり着いた意外な真相も権力に握りつぶされる……
カーマイケルの心がいじけて卑屈になっていくのもよく分かったのだが、でも考えてみれば英国人てみんな彼みたいにひねくれてなかったっけ?とも思ったりして(笑

しかし彼がもっと興味をそそられたのは、昨年の秋に新聞で少し騒がれたのに、名前を聞くまですっかり忘れていたミセス・カーンの存在だった。「イングランドの名花、ユダヤ人に摘みとられる」と吠えたのは『デイリー・エクスプレス』だったし、『テレグラフ』さえ、「由緒正しい英国貴族の令嬢の血が、大陸ユダヤの無能な血と混じってもよいのだろうか?」と読者に問いかけた。そう ―はっきり思い出した― ルーシー・エヴァズリーだ。


今作もカーマイケルと若いヒロイン、犯人を追う側と追われる(容疑者にでっち上げられ逃亡生活を強いられる)側の二つの視点でストーリーは進行する。
そのヒロインは、貴族の娘でありながらユダヤ人との結婚を選んだルーシー。上流のあらかじめ決められた生き方から外れた道を選んだヒロインの語りが魅力的なのは今作も同じだ。優雅で特権的な貴族の暮らしぶりを織りこみながら、たとえ爵位継承権を失うことになるのだとしても自由で自分らしい人生を歩もうとするルーシーの姿は(皇室に嫁ぐケイトさんの身の上を報じる英メディア流の言い方をすれば「ブルー・ブラッドを選ぶ」…)、第二部のヴァイオラ、第三部のエルビラの生き方にも重なる。シリーズを通じてヒロインの家族関係がストーリー展開に起伏を加え、特に母親や姉妹への複雑な感情を政治体制への不審へとつなげていくのが上手いのは女性作家ならではの感性という感じもする。
良家に生まれながら、貴族社会に安穏と生きていくことを拒んで成長していくヒロインと、良心の呵責に耐えながら苦渋の決断を迫られるカーマイケル。
この三部作は歴史改変もの、政治、ミステリー、エンタメ、とどれか一つのジャンルに括ることは到底不可能なのだが、自分にとっては、「アウトローではないが、アウトサイダー」を生きる主人公たちに惹かれ続けた物語なのだった。



大枠にはファシズムが蔓延していくイギリスがあるのだが、でもイギリスはドイツのようにはならないという自信というのか、自負が行間ににじんでいて、安心して読めるのが良い。
反体制運動や抵抗運動が起こったりするわけではない。些細な日常描写から漂ってくるのだ。根なし草であるわれわれ日本人にはちょっとわかりづらいのだが、お茶やパブで飲むビールの味へのこだわり方や、執事や使用人との信頼関係にそれは表れている。おいそれと譲ることのできないもの。ちょっとのことではぐらつかない、長い間築いてきた習慣。良き伝統こそはファシズムに対する最良の免疫なのだ。もちろん、その伝統に王室と貴族の存在が果たしてきた役割は大きい。
(先月のロイヤルウェディングを生中継で見ていて、これはアメリカや日本なんかでは実現不可能だとつくづく感じたものだ)
本作では保守的な一部の貴族がファシズムの温床として描かれているのだが、絶えず自分の階級と身分を意識して生きねばならない社会と、一応は法の下に「平等」を保障されて無意識に生活できてしまうのと、民主主義の感覚を磨くのにはどちらが良いのだろう、なんてことまで考えてしまった。

 「クソばばあ」外の砂利道を歩きはじめたとたん、ロイストンが小声で吐き出した。
 「君は彼女の魅力に悩殺されなかったのか?」ベントレーのドアを閉めながら、カーマイケルは言った。「俺もだよ。あれが、この国を動かしているクソばばあだ。一座の中でも超一級の、百パーセント南イングランド純血種の、クソばばあだ」


おそらく日本でわれわれがこの物語を読むとき、完全なフィクションとして読んでしまえるのは幸せなことなのだろう。(そして、無責任な感想をこうやって書き散らかすことも!)  きっと英本国やヨーロッパでは、もっとデリケートな読み方が求められるのだろうし、無条件に絶賛されることもなかったのではないかとも思う。逆に言えば、それが良い悪いは抜きにして、宗教や階級差を知らない日本人にはこの三部作をエンターテイメントとして存分に楽しむ特権があるのだ。
現代にこういう作品を生むイギリス恐るべし。これだって英国文化と伝統の賜物の一つなのだ。かの国の造詣を深めてくれる楽しい読書体験だったが、憧れはいや増すばかり。願わくば『バッキンガムの光芒』で幕を閉じたファージングの「その後」も読みたい!と無責任な特権をふりかざしたい。



ウィリアム王子の結婚式でも歌われた“エルサレム”(本人のリクエストだったとか)。
これはやっぱりBBCプロムスのヴァージョンがいい。毎年恒例プロムス・ラストナイトの定番、“Land of Hope and Gloly(威風堂々)”に続いて、最後の国歌“GOD SAVE THE QUEEN”の直前に必ず演奏される‘英国愛国歌’。歌詞はウィリアム・ブレイクの詩だ。