今村楯夫 / ヘミングウェイの流儀


雑誌『Pen』4/15号は今年没後五十年の「ヘミングウェイ、再び」。


          



今村楯夫、山口淳 / ヘミングウェイの流儀 (230P) / 日本経済新聞出版社・2010年 3月 (110516−0519) 】



・内容
 ヘミングウェイの小説にはさまざまな“モノ”が描かれている。一方、米ボストンのJFKライブラリーには、ヘミングウェイのさまざまな身の回り品が収蔵され、買い物の領収書や注文書なども保管されている。それらの“モノ”を照合させ、また見比べながら、ヘミングウェイという20世紀に生きたひとりの作家の実像を明らかにする。


          


愛用品から文豪のライフスタイルに迫ろうという試み。ヘミングウェイは着るものには無頓着で質実剛健なマッチョというイメージがあるが、実は名品をいち早く選んでいた目利きだったという。まずテーマありき、でその論旨にそって考察を加えているように感じられた。ヘミングウェイ好きはこれで喜ぶのだろうか。
カリブのリゾート地でショーツにサンダル履きなんてお洒落でもなんでもない当たり前の格好だろう。釣りとハンティングを趣味にする者がナイフにうるさいのは当然だし、ましてやときに命がけで獲物と格闘したのだから、道具や装備には金を惜しまなかったはずだ。
では作家なのだから筆記具のこだわりはどうかというと、パパのメインの仕事道具は2Bの鉛筆だったというのは皮肉か。彼自身が広告に登場したパーカーやタイプライターも紹介しているのだが、苦し紛れのこじつけ感が臭う。
もし彼が本当に、いわゆるエンスー(死語?)な人だったのなら、車をはじめ、もっとわかりやすい愛用品がいくつも挙げられたのではないか。そうではないのに、古いモノクロ写真に虫眼鏡を当てて拡大解釈をしているように思えてならなかった。ファッション史のうんちくに作家の人生を強引に重ねた部分も散見されて、眉にたっぷり唾を塗りつつ読まねばならなかった。



膨大な評伝、研究書が書かれているヘミングウェイだが、モノから迫った研究は欧米にはないと著者は自賛している。それは、あんまり意味がないことだからだろう。彼がロレックス・バブルバックを持っていたといっても、どうしようもない日本人だって持っているじゃないか。海の男なのに、なぜサブマリーナやシーマスターではなかったのかという踏みこんだ考察はされない。
ヘミングウェイが生きたのは、今ほど物があふれた時代ではなかった。二度の大戦があり、大恐慌もあった。彼が頑丈で機能的なスタンダードを愛用したというのは事実だろうが、当時はそういうものしかなかったのであって、選択肢だって今ほど多くはなかっただろう。
それで十分、たいして不自由しなかった。そういう視点を欠いているから説得力がないのだ。アメカジだ、アイビーだ、トラッドだ。あちらでは特別でもなんでもないものをファッションブームとして理解する。この本に適用されているのは斬新なようで、実はものすごく古い価値観であって、いかにもアメリカ文化に追従してモノの価値をかん違いし続けてきた国でつくられた本という気もしてしまった。



一方、『Pen』の特集は、ヘミングウェイ・ガイドとして上出来だった。バイオグラフィ、著作・関連書リストから親交の深かったロバート・キャパ撮影の写真も多数収録、交友録、生前の作家を知る者へのインタビュー、と多角的に文豪を紹介してくれている。
この中に『ヘミングウェイの流儀』執筆者両名が担当したページもあって、この企画全体の中ではバランス的にも上手く収まっていて、面白いトピックとして読めた。



個人的に最も嬉しかったのが、このページ。「私はこれから彼をアーニーと呼ぶんや。」 ‘ごぞんじ’開高健の直筆原稿が載っていた。ヘミングウェイ作品の新聞広告用に書かれた文章らしいのだが、詳細は明らかではないとのこと。

          

またまた『開高健の文学論』から。昭和六十二年の『PLABOY』誌に寄せられた‘ヘミングウェイの遺作『エデンの園』を語る’に、この原稿と内容が重なる文があった。
ヘミングウェイは短篇を書くうえで自分の文体に“Audible,Visible,Tangible” の要素を求めた。「聞ける、見える、触れられる」即物的な、手ごたえのある文体。これこそがハードボイルド・リアリズムと呼ばれる所以であり、殿下はヘミングウェイの短篇からアメリカ文学の洗礼を受けたと告白している。


ヘミングウェイの流儀』を読んでも、ヘミングウェイを見て、聞いて、触れることはできない。ヘミングウェイに関する本なのだから、ヘミングウェイを読もうという気にさせてくれなきゃ困るのである。
その点で、『Pen』の特集はGood!なのです。