カズオ・イシグロ / わたしを離さないで


「読んでから見る」のがオオカミ族の流儀なので、四月に放送されたNHKETV特集カズオ・イシグロを探して」はとりあえず録画だけしておいた。とっても見たいのに、まずは本を読まなければこのビデオは見てはいけないという変なプレッシャーを自らに課して、やっと『わたしを離さないで』を読み始めた。
なのに……、この前の日曜夜に再放送があって、見ようか我慢すべきか直前までぐずぐずしていて、結局見てしまった。


今年三月、映画『わたしを離さないで』日本公開に合わせて来日したイシグロのインタビューと、分子生物学者・福岡伸一氏(『生物と無生物のあいだ』)の対談は興味深かった。しかしこの番組、ネタバレへの配慮はまったく無しで、てきぱきとストーリーを紹介していく。あらあらと思っている間に、ナレーションと作品朗読で次々に物語の核心を明かしていくではないか!まさに今読んでいる者(自分)などおかまいなしに重要場面の朗読をしている画面のともさかりえに向かって、何度「そこを読むな!」と毒づいたことだろう。(彼女に罪はないのだが)
…というか、読んでから見れば良かったのだ。



カズオ・イシグロ / わたしを離さないで (450P) / ハヤカワ文庫epi・2008年 (110520−0524) 】

NEVER LET ME GO by Kazuo Ishiguro 2005
訳:土屋政雄



優秀な介護人キャシー・Hは生まれ育った施設ヘールシャムでの日々に思いをめぐらす。図画工作に力を入れた授業、毎週の健康診断、保護官と呼ばれる教師たちのぎこちない態度...。彼女の回想はヘールシャムの残酷な真実を明かしていく― 全読書人の魂を揺さぶる、ブッカー賞作家の新たなる代表作。


            
                  

不運にも以前何かでこの主人公たちがどういう人間なのか小耳にはさんだことがあって、読む前から何となく暗い先入観はあった。読み始めると主人公キャシーの丁寧な語り口に引きこまれるのだが、その物腰の低い優しい口ぶりが、逆にある種の緊張を読者に強いる。これからどんなことが明かされるのか、些細なことも見逃さぬよう、じっくり文を追うことになる。
英国の寄宿学校で育ったキャシーが子供時代から現在までを回想する。ヘールシャムという施設での暮らしは一般の学校生活とさして変わらないように見える。擁護施設だろうか、あるいは一種のパブリックスクールかエリート養成所のようなところか。しかし、そこにいる生徒は特に家庭や健康に問題があるわけではなさそうだし、特殊な才能を持つ集団でもない。まったく普通の子供たちなのだが、彼らの会話に家族のことがまったく出てこない不自然に気づく頃には、ヘールシャムが外界から隔絶されていて厳格に生徒を管理しているのを知ることになる。
幼なじみのルースとトミーとの生涯にわたる関わりを郷愁をこめて振り返るキャシーの言葉にときどき現れる「提供者」「介護人」「使命」「猶予」といった単語が不吉な影を落としていて、それは彼らの成長とともに色濃くなっていく。

 「何か大事なものをなくしてさ、探しても探しても見つからない。でも、絶望する必要はなかったわけよ。だって、いつも一縷の望みがあったんだもの。いつか大人になって、、国中を自由に動き回れるようになったら、ノーフォークに行くぞ。あそこなら必ず見つかる、って……」
 ルースの言うとおりでしょう。ノーフォークはわたしたちの心の拠り所でした。


ヘールシャムで暮らしている(他所を知らない)子供には、そこが閉鎖的な空間で特殊な教育方針に則ってカリキュラムが組まれていることなんて知りようもない。彼らにはそこがホーム。仲間意識、疎外感、優越感、劣等感、秘密、同調、裏切り、自己嫌悪。誰もが過ごした幼少期と同じような子供たちの光景、子供たちなりの社会が描かれている。傷つきやすく、傷つけやすいのは、彼らだけの特別な経験ではないはずだ。だが、彼らが背負わされているものへの漠然とした警戒心から、読む側は彼らの異常性を、ときに必要以上に強く意識してしまう。やはりあの子たちは違うのだと。
そこで現れてくるのがこの作品のキーワード「教わっているようで、教わっていない」。ヘールシャムの生徒たちが教わっていなかったこととは?
やがて彼らは自分たちの置かれた環境(=運命)に目を向けるようになっていく。自分たちの特殊性(=使命)を理解しようとし始めるのだが、はたして彼らはそんなに変わっていただろうか。ページから顔を上げて、ふと、自分は壮大な誤読をしているんじゃなかろうかという不安に包まれる瞬間が何度もあった。その誤読でさえ、著者の計算上のことと思われたり……。われわれの日常と彼らの日常。一方が正常で、他方は異常。本当はあいまいな境界なのに、書物という壁、フィクションという線引きで色分けしてしまいがちな自分の目線を試されているような気持ちも味わった。



物語を構成するのはキャシーの病的に緻密な記憶である。お互いに知りつくしているルースの、トミーの、表情の翳り、ためらいを隠した口調、微妙な一挙手一頭足まで再現できるのは、これまでにもう何度も反芻してきたからだろう。もはや記憶にしか存在しない者たちへの想いの深さは痛々しいまでだ。
カズオ・イシグロを探して」の中でイシグロは、「記憶は死に対する部分的な勝利であり、それこそが記憶の最も強力な要素」だと語っていた。小説は記憶を写真のように固定する装置なのだと話し、自身の創作において記憶がいかに重要な役割を担っているかを説明していた。また、福岡伸一さんの「記憶は動的平衡において、人間のアイデンティティを説明できる一つの答」という見解に深く同意していた。
キャシーの記憶は長い間に美しく再構築されたものかもしれない。忘却もあるだろうし、無意識に排除した部分もあるはずだ。だが、彼らはそもそも記憶を保つ、あるいは誰かの記憶に刻まれる生命だったのだろうか……。
人間倫理をかすめて背筋を震わすその感覚は、形は違えど 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 の読後感にすごく近かった。『アンドロイドは〜』を思い出すとき、その興奮の残滓には、必ず一抹の後ろめたさも含まれているのだ。

 「役に立てなかった。ほんとに見つけてやりたかったんだけどな。で、これはもう出てきそうにないなって思ったとき、自分に約束した。いつかノーフォークに行って、キャスのために見つけるぞ」
 「イギリスのロストコーナーか」わたしはそう言って、辺りを見回しました。「そして、いまここにいる」


キャシーとトミーは二人が愛しあっていることを証明すれば、一緒にいられると信じる。そんなこと証明しようとしなくていいんだと助言する者は彼らの近くにいなかった。彼らとわれわれのあいだには目に見えない溝がある。見えないのだったら、なくても良いではないか?だけど、彼らは悲しいほど繊細だった。
そんな無垢な繊細さはこの世では通用しないことを、彼らは「教わってない」。不思議なことに、それゆえに彼らが人間的に見えるのだとしたら、「この世」にいる自分は何なのか。彼らとの対比によって、自分も含めたこの世界が残酷であることにようやく気づく倒錯。
ヘールシャムを巣立って共同生活をしているコテージで、ポルノ雑誌をかたっぱしから見ているキャシーが切ない。彼女がそうしないでいられない理由を見抜くトミーの洞察の鋭さが、もっと切ない。これは「あなたの世界の物語」じゃないですか?著者がそう突きつけてくるようだった。
些細でリアルなエピソードの積み重ねは読者の意識を虚構と現実のはざまに幻惑する。主人公たちのまったく人間的な営みはフィクションと突き放してしまえない吸引力があって、喪失へのささやかな抵抗を通じた成長を見つめる物語としても読めた。
もしかしたら公にされてないだけで、この世界にはもうすでにルースやトミーのような使命を帯びた存在が暮らしているのかもしれない。科学や経済の発展は都合の良い犠牲すら生産する。だが、その一方で、こういう小説だって生み出すのだ。


もしかしたら、自分も何かの使命を課されて生み出されたのかも……? そういえば、かつて愛を証明しようと奔走した季節が自分にもあった(遠い目)。



映画『わたしを離さないで』は地元では上映さなれなかった。あこがれのキーラ・ナイトレイがルース役で出ていることもあって、絶対観たいと思っていたのに…… 近くにシネコンが三つもあるのに、どういうことだ?と日本の映画事情のへっぽこぶりを嘆きたくもなるのだが、七月に静岡で上映されるので、そのときに見に行こうと思っている。