ジェーン・オースティン / 高慢と偏見


上下巻600ページ。一日100ページを目標に読み始める。幸せな結婚を夢見る淑女のお話なので、自分には関係なさそうな内容。一週間では無理かもしれないと思っていたのに、いざ読みだすと、これがなかなかどうして面白い。A型読書エンジンにばっちり火が点いて、毎日順調にノルマを消化。おかげで先週はずっと寝不足気味だったんだけど。


テキストは昔、途中で放りだした岩波文庫版をメインに。1950年初刊のこの翻訳には賛否あるようで、批判ももっともと思える部分もたしかにある。でも、個人的にはこの古めかしい慇懃な文体(「おあいそを言う」とか「ねんごろになる」とか)はこの小説の雰囲気にマッチしていたと思う。
所々で河出文庫版(訳:阿部知二、1968年)も読んでみたのだが、女性はしとやかさと慎ましさを求められ、男性は礼節を重んじる紳士であることが求められた時代の奥ゆかしさを再現したのは岩波版の方が上だと思う。(大きな違いを一つ挙げれば、ダーシーの主語が「わたし」と「ぼく」に別れる。自分は富田訳「わたし」がふさわしいと感じる)
女性の移り気な結婚観と幸福な家庭についての物語なので、本当は女性が翻訳するのが望ましいと思うのだが、いくつかあるこの作品の日本語版はなぜか男性訳ばかり。なんでも現代的新訳にすれば良いというわけではないけれど、この作品こそ「古典新訳」がもっとも望まれる本の一冊ではないだろうか?



ジェーン・オースティン / 高慢と偏見 (上337P、下279P) / 岩波文庫・1950年 (110605−0611) 】 

Pride and Prejudice by Jane Austen
訳:富田 彬


プライドと偏見 / 2005年 イギリス映画 / ユニバーサルDVD / 110612 】



・内容
 十八世紀末イングランドの田舎町ハーフォードシア。ベネット家の五人の子は女ばかりで、母親は娘たちに良縁があるようお節介を焼くのが生きがいだ。舞踏会で、長女ジェインは青年ビングリーと惹かれ合い、次女エリザベスも資産家ダーシーと出逢う。彼を高慢だとみなして反感を抱いたエリザベスだったが……
牧師館の一隅で家事の合間に少しずつ書きためられたオースティン(1775‐1817)21歳のときの処女作は、探偵小説にも匹敵する論理的構成と複雑微妙な心理の精確な描出によって、平凡な家庭の居間を人間喜劇の劇場に変える。


          


五人の娘がいるベネット家はけして高級な家柄ではない。結婚適齢期の長女ジェーンと次女エリザベス(リジー)はそれぞれ上流の青年紳士と知り合うが、身分差から、なかなかストレートに意を通じ合うことができないでいる。その前時代的なもどかしさが良い。
二転三転する二人の恋模様を中心にストーリーは展開するのだが、あくまで男性主導であって、女性の方からモーションをかけたり(…なんて今どき言わないか?)、アタックしたり(…言わないよね)はしない。そんなことは社会規範に背くふしだらな蛮行として軽蔑される時代。礼節をわきまえ、貞淑であることが、女性としての最低限の美徳だったのだ。
食事に招き招かれて、限られた社交の場で交わす会話と態度でしか互いを知り合う機会はない。現代のように気軽に連絡を取り合って二人きりのデートを重ねるというつきあいではないから、自然と実際に会う時間より、相手のことを観察し、考える時間の方がはるかに長くなる。世間の評判やうわさ話も耳に入る。それゆえ、誤解も生じやすい。

 そこへ行くと、ベネット氏の感情は、この際ずっと平静であった。自分はなかなか愉快な気分を味わった、と彼は皆の前で言った。なにしろ、つねづね相当に利口なひとだと思っていたシャーロット・ルーカスが、自分の妻と同じ程度に馬鹿で、自分の娘よりはるかに馬鹿だということを発見したのだから、こんな愉快なことはない、というのが彼の言い分だった!


結婚がただ個人間の取引で成立するのではなく、家族と親類縁者にも大きな社会的影響がある。中心にはエリザベスのラブストーリーがあるのだけれど、それは「道ならぬ恋」を果敢に突破しようとする勇気の物語ではないし、ましてや「玉の輿狙い」の婚カツ女の話でもない。彼女と富豪ダーシー氏がそれぞれに自分と相手の家格差に思い悩みながら、どのようにその溝を埋めて歩み寄り、理解を深めていくかを見つめた物語なのだった。
快活で聡明なリジーの自問と煩悶が手に取るようにわかる。それこそ「泣きたいのに笑わなければならない」リッチではない家庭に育った次女の悲哀が、実に鮮やかに細やかに生き生きと描かれていて、男でも彼女に共感できてしまう。
彼女を前にしたときのダーシーの無愛想は逆にいらいらするほどで、なるほど高慢ちきに見えるのにも納得。そんな二人の姿をときに滑稽なものとして、ときに皮肉っぽい口調で語りながらも、著者の筆致はあくまで優しい。



上流の紳士の側には彼の家柄をさらに高めそうな婚約者候補の令嬢が必ずいる。世間的にはベネット姉妹などは部外者のはずだった。器量はまずまずで、知性もそこそこ。ただ、教養のなさと、高貴とは言いかねる家系に致命的な欠陥がある。そんな女性との交際は、名家の男の側からすれば社会的な体面を損なうことにもなりかねない。その難題をさしおいても、彼らがジェーンとエリザベスに惹かれたのは何故か。そこにこそこの作品の読みごたえが隠されていたと自分は思う。
会いたいと願っても、いつ会えるのかもわからない。通信手段といえば手紙しかなく、どこかに行くとなれば徒歩か馬車しかない。物理的にも精神的にも身近ではない相手を想い、また自分の家族や将来の境遇を彼女たちは真剣に考える。ときに想像力が先走って不信感を募らせたりもするのだが、結局は互いに誠実であることを示しあうしかないのだ。

エリザベスは、自分の気持ちを偽ってみせるのに、こんなに困ったことはなかった。泣きだしたいと思う時に、笑っていなければならなかった。ダーシー氏に気がないと、父が言ったことは、なによりも残酷に彼女を苦しめた。彼女はただ、父はどうしてこんなに眼がきかないのだろうと不思議に思ったり、あるいは、ひょっとして、父が少ししか見ていないのではなくて、自分があまりに想像を逞しくしすぎたのではあるまいかと、と不安になったりするばかりであった。


高慢だったのはダーシーの方だけではない。それに気づくまでのエリザベスの心境の変化と成長がよくわかったし、読んでいて嬉しかった。
これは実はタイトルの裏側を描いた作品ではなかったか。すなわち、「寛容と誠実」の物語なのだ。

若い女性の微妙な心の揺れを、ときにユーモアと皮肉をまじえてとらえた傑作だったが、男の自分としては、身分差の不条理に傷つく娘たちのそばにいながら、少し距離を置いたところから見守っているベネット父がとても好きだ。
エリザベスがはじめに惹かれる士官ウィカムの境遇は、マキューアン『贖罪』のロビーのヒントになったのではないだろうか?裕福な荘園領主の寵愛を受けて育ち、ケンブリッジで学ぶ…というあたりが(というか、この時代にすでに最高学府としてケンブリッジもオックスフォードもあったのだ!)

この小説が書かれたのは十八世紀末。日本は江戸時代である。十九世紀末〜二十世紀の英文学にはなじみがあるが、それより百年も前の作品が今でも読まれているのだから、古典やスタンダードというものの重みを感じる(シェークスピアなんかもっと前なのだ!)
この作品でも末娘のメアリが読書家だったり、ダーシー邸の図書室のことが書かれていたりする(『贖罪』にも例の図書室のシーンがあった) 六十年前の翻訳が読みにくいと難癖をつけたがる現代日本人とは、言葉と本の文化に埋めようのない差が歴然とあることを痛感しもする。


          


さて、この映画版が『プライドと偏見』。こちらの方が制作は先だが、ジョー・ライト監督はじめほぼ同じスタッフが『つぐない』も撮っていたのだった。
大事件というほどの動的なドラマはなく、ほとんど会話とモノローグ中心にビビッドなストーリーが展開される小説をどう映画化してあるのかと思っていたのだが、そんな心配はご無用、名作の風情を湛えた堂々たる傑作だった! 原作よりエリザベスとダーシーのラブストーリーとしての性格は強調されてはいるが、小説の主要エピソードをほぼ盛り込みながら、上手く二時間ドラマにまとめてある。
ジーに扮したキーラ・ナイトレイは自分のイメージとはちょっと違っていたのだが(はっきり言って、可愛いすぎ!)、後半に進むにつれ淑女らしさが増していくあたりはさすがである。
イングランド貴族の壮麗な大邸宅が見られるのも『つぐない』同様で、光と影の撮り方が明らかにハリウッド物とは違う。これは長く記憶に残りそうな映画で、本当に見て良かった!


英国文芸作品のキーラ・ナイトレイは本当に美しい。
来月見にいく予定の『わたしを離さないで』もきっと良いだろう。イギリスのロストコーナー、今から楽しみにしている。