イアン・マキューアン / 贖罪


小説と映画DVDを「読んでから見る」企画。英国女優キーラ・ナイトレイがヒロインを演じる文芸作品を二本。
あくまでも小説メインがオオカミ族の流儀。べつにキーラ・ナイトレイを見たいからついでに原作を読む、というわけではない。


【 イアン・マキューアン / 贖罪 (446P) / 新潮社・2003年 (110529−0604) 】

ATONEMENT by Ian McEwan 2001
訳:小山太一


【 つぐない / 2007年 イギリス映画 / ユニバーサルDVD / 110605 】



・内容
 現代の名匠による衝撃の結末は世界中の読者の感動を呼び、小説愛好家たちを唸らせた。究極のラブストーリーとして、現代文学の到達点として―。始まりは1935年、イギリス地方旧家。タリス家の末娘ブライオニーは、最愛の兄のために劇の上演を準備していた。じれったいほど優美に、精緻に描かれる時間の果てに、13歳の少女が目撃した光景とは。傑作の名に恥じぬ、著者代表作の開幕。


          


文字でぎっしり埋まったページが続く。緻密なのは緻密だが、いかにも文学然とした古めかしいマクロな心理描写がだらだら続いて、この調子で400ページはきついなぁと、ちょっと怯んだ第一部。1935年夏、英国上流階級のあるお屋敷での一日が長々と綴られていく。
久しぶりに帰省する兄を自作の演劇で歓迎しようとするタリス邸の次女・ブライオニーが主人公のようだけれど、同じ光景を彼女以外の登場人物の目線でも辿っていく手法。なかなか作品の世界に入っていけなかったのは、自分がどの人物に感情移入すればいいかつかめなかったからだ。ブライオニーは作家志望とはいえ、まだ13歳の夢想癖のある少女。世間知らずで汚れを知らない彼女は、タリス家の限定的な狭い世界では行為者ではなく観察する側に属している。
友人を連れて兄が帰ってきたその日、彼女は唯一の‘目撃者’であり‘証言者’となる。一座の主人公に躍り出るチャンスが彼女を興奮させていたのかもしれない。

今のブライオニーは、望みさえすればそれがかないそうな気がした。自分が駆け抜けてゆく世界は自分を愛しており、自分の望むものは何でも与えてくれ、現実のものとしてくれるのだ。望みが現実となったときには、自分はそれらを描写しよう。書くという行為は一種の飛翔、空想と想像力によって成しとげられる飛行ではないだろうか?


出来事といえば二つ三つのことだけしか起こらない。花瓶と噴水、図書室での秘め事、従姉ローラの受難。それを多角的、重層的に描出するのも当時のブライオニーの心理状態を説明するためだったか。
ある光景が少女の目にはどう映ったか。真夜中の庭で彼女に見えたのは、彼女が見たと信じたのは何だったのか。彼女の証言は年のはなれた姉・セシーリアとタリス家の家政婦の息子・ロビーの関係をどう狂わせたのか。疑惑は残るまま第二部へと進むのだが、ここからがらりと文体が変わる。
あの一夜から五年後、フランス戦線に従軍したロビーはダンケルク撤退の最中にいた。第一部が意図的に冗長な文章を連ねてあるのに対し、この章の生々しく非情な現実描写は作家の真の力量を見せつけるものだった。
続く第三部、大空襲直前のロンドンで看護婦見習いとして必死に働くブライオニーの姿も胸を打つ。数年前、幼かったとはいえ出来心から冒してしまった過ちに、彼女もまた苛まされているのだった。あれは悪意はあったかもしれないが、嘘だっただろうか?潔癖ゆえに招いた罪も問われ裁かれるべきものだろうか?だが、現実にはロビーが罪を負わされ、姉とロビーは引き裂かれたのだ……

初めて明瞭な発音をしようとする幼児のようにゆっくりと、彼女は彼の名前をささやいた。彼が彼女の名前で応えると、それは新しい単語のように響いた― 発音は同じだったが、意味が変わっていたのだ。そしてロビーは、空疎な芸術や空疎な演技が束になっても究極の価値を減ずることのできない、あの三つのシンプルな言葉を口にしたのだった。それを繰り返したセシーリアの声は、ロビーとまったく同じくふたつ目の単語にかすかなアクセントを置いており、まるで彼女の方が最初にその言葉を口にするようだった。


第二、三部のダンケルクから戦時下ロンドンの圧倒的なリアリティが第一部の少女のファンタジックな記憶を蹴散らしてしまうかのような本作は、実は作家として成功を収めた晩年のブライオニーが遺作のつもりで書いた作品だったことが明かされる。
高級官僚の娘セシーリアと使用人の子ロビーの恋は、身分差を越えて激しく燃えあがる。ロビーはドイツ軍の激しい空襲を逃れて海岸線へと向かって行軍する。両親と縁を切ったセシーリアはロンドンで看護婦として自立し、ひたすら彼の帰還を待っている。出征した男と生還を祈る女という古典的な恋愛物語のフォーマットを採りながら、現実の(それも二重の現実の!)冷酷さが告白される仕掛けになっているのだった。
それではまったく救いのない物語だったかというと、そうではないのだ。過ちは罪かとか、一生かけて償う気持ちだとか、そういうことだけが書かれていたのではない気がしている。パラレルワールドを書くことのできる小説家の仕事とはどういうものであるべきか、そんなことも(著者自身の自戒を含んでいるのだろうか?)語られているように感じられたのだった。
第一部は「韻と装飾」に満ちている。他者と自然風景を念入りに観察して描くことはできていても、自身を素直にさらけ出すことはできていない。…というのは映画鑑賞後の印象なのだが。

翻訳は、偶然にも先に読んだ『ジーヴスの事件簿』の小山氏。
また、本書のイントロダクションにはジェイン・オースティンが引かれていた。



この映画化作品が『つぐない』。素晴らしい演技と映像、それにクラシック調の叙情的なスコア(第80回アカデミー賞作曲賞)が相まって、心理描写の多い小説のドラマ化に見事に成功している。
キーラ・ナイトレイが美しいのは当たり前(特に緑のドレスの彼女が)。広大な庭園のあるイギリスの古い屋敷や、ダンケルクの浜辺を救助を待つ数万の英兵が埋めつくす光景も印象深かったのだが、なんといっても最後を締める、晩年のブライオニーを演じたヴァネッサ・レッドグレーブが貫禄の名演!短い出番ながら最後に全部持っていっちゃった、という感じだった。
小説に比べると映画はセシーリア(キーラ)とロビー(ジェームス・マカヴォイ)のラブストーリーに比重が置かれてはいるけれど、不遜な脚色はなく、原作の世界観を少しも損なわない出来映えだったと思う。13歳、18歳、老年と三人登場するブライオニー役もそれぞれ好演。金髪にブルーの瞳、痩せぎすのイメージで三世代の芸達者がそろうイギリス映画界の底力も感じた。
原作小説と映画、どちらもそろって良いというのはなかなか無いと思う。しかもこの両作品には相乗効果もある。今回は小説を読んでから見たので登場人物の関係が頭に入っていたというのも大きいのかな。これを映画だけ見ていたら、すんなり全部理解できたかどうか…



正直に書けば、時間がかかるし、こりゃめんどくさいなーと実は思っている。感想書くのも疲れるし。さっさと映画だけ見ればいいのだ(あるいは小説だけ)。
でも、もう一本行くぞ。来週は『高慢と偏見』だ!