福島原発メルトダウン、原子力神話からの解放


少し前から合間の時間にちょっとずつ原発関連本を読んでいる。
細かい感想は書かないけど、福島第一原発事故は現在進行中の事態でもあるので、覚えておきたいこと、気になることは記しておこうと思う。



広瀬隆 / 福島原発メルトダウン (190P) / 朝日新書・2011年 5月 (110530−0603) 】


          


以前から原発の危険性を訴えてきた広瀬氏による福島第一原発事故の解説書。この事故はエセ専門家、素人集団、それに原子力産業の手先の者たちが引き起こした人災だと強調し、政府と東電の発表をたれ流すマスメディアも同罪だとする。第二部では「子供たちのために今すぐ全原発を停止せよ」と警告している。

  • 福島第一原発の運転開始は1971年。今年で四十年を迎える老朽原発だが、東京電力はさらに二十年の運転が可能だとしていた(検証はまだこれからだろうが、「古さ」がメルトダウンメルトスルーの一因だったとすると、どれだけ津波対策と電源確保の安全策を施したところで原子炉そのものが老朽化している他の原発でも福島と同様の事態が起こりかねない)
  • 原子力発電のエネルギー変換効率はけして良いわけではない。発電に使われるのは原子炉でつくられる1/3の熱エネルギーであり、残りの2/3は「温排水」として海に放出され続けている(海の生態系への影響が小さいわけがない)
  • 原発は定格出力でしか運転できない。一度運転を始めれば需要の多寡にかかわらず同じ出力で動かすしかない
  • 真夏の一時期の電力需要のピークに合わせて稼働する原発は供給の融通が利かず効率的とはいえない。電力不足の危機ばかりが唱えられているが、余剰・過剰電力については一言も公表されない
  • 3.11の地震が数日後にマグニチュード9.0に引き上げられたのは、保障と賠償面で不利にならないよう「未曾有」「千年に一度」そして「想定外」の印象を強めるための情報操作だった可能性がある(浜岡原発がM8.4クラスの地震を想定していたため)
  • ヨウ素131の半減期は八日」とはよく耳にするが、短期間に大きなエネルギーを放出するということで、けして安全なのではないし、半減を繰り返してもゼロになるわけではない
  • 事故後、多くの学者がテレビ等で解説をしていたが、そもそも本当に「専門家」なら震災以前にその危険を指摘できたはず。地震学者にも福島原発に警鐘を鳴らしてきた人はほとんどいない


『東京に原発を』、『危険な話』などが出版されたとき、広瀬氏は一部マスコミと組んだ御用学者から‘パニック煽動家’扱いされ糾弾された。それこそ‘反・原発叩き’ではなく、‘反・広瀬隆キャンペーン’とでも呼べそうな異常なまでの個人攻撃が行われていたと思う(それが今は掌を返したように引っ張りだこの‘売れっ子’扱いだ)。今回の事故はこれまでの彼の主張が不幸にも現実のものとなってしまったわけだが、それだけにテレビ等で楽観論を口にしていた科学者・大学教授らへの批難は手厳しい。
最悪の事態を想定し、回避するための方策を熱のこもった強い口調で語る。「正しい情報に基づく正しいパニックを起こすべき」との主張は、現在の不審の連鎖と不安が蔓延する状況下でこの人らしい説得力に富む。だが、ややもすればエキセントリックとも捉えられかねないこの人の個性、かつて自分を貶めたマスコミも含む原発擁護・推進派へのむき出しな敵意が強すぎる分、冷静であるべき科学的な解説部分も注意して読まなければならないと思われるのは少々残念。
個人的には、彼が過去どのような言論弾圧を受けてきたのかも知りたい。



高木仁三郎 / 原子力神話からの解放 (301P) / 講談社+α文庫・2011年 5月 (110606−0616) 】


          


こちらは1999年9月の茨城県東海村JCOウラン加工工場の臨界事故をきっかけに書かれたもの。原子力政策を推進してきた、原発は「安全」「クリーン」「安い」「地域振興に寄与する」「日本の技術は優秀」など九つのスローガンについて、平易で簡潔な説明で一つずつ検証していく。原子力の危険性のみならず、もはや斜陽産業である原子力産業の歴史と、その閉鎖的で特異な業界構造からも問題点を浮かび上がらせる。
十年前に書かれたものながら、今まさに問われていること(電力エネルギーのあり方)のすべての答えがここには書いてあると思う。高木氏は本書を遺し、2000年に他界された。(原書は2000年、光文社カッパブックス刊)

  • 原子力による発電形態は最先端と思われがちだが、タービンを回して発電機を動かす古典的な方式のものと変わらない(エネルギーの転換効率は火力よりも悪い)
  • 当初はさまざまな用途への使用が期待された核エネルギーだったが、結局発電以外には使い道がなかった(他には兵器利用だけ)
  • 政治主導で日本の原子力産業は形成された。GHQによって解体された旧財閥系企業(三井、東芝、日立、三菱等)をグループ化して巨大産業化が図られた
  • 日本の原子力政策はエネルギー政策というより産業政策であって、1969年以降、ほぼ年二基(加圧水型−三菱と、沸騰水型−東芝・日立を各一基ずつ)のわりあいで発注と運転開始を重ねてきた。旧財閥系でシェアを分け合う形で原子力産業は維持されてきた
  • 「五重の壁」とはいっても原子炉の安全性は圧力容器の健全性にかかっていて、経年劣化やメルトダウン時には絶対安全だとはいえない
  • 原子炉施設の安全だけでは不十分なのであって、発電所全域が防護されているのでなければ安全とはいえない
  • 原子力を選ぶということは社会全体としてその危険性と事故の可能性まで含むことをわきまえねばならない。現実的な覚悟を認識したうえで判断しなければならない
  • 迷惑施設でもある原発は周囲に産業を呼ぶことはなく地場産業を活性化させもしない。原発依存型の町としてしか生きていけなくなる


さらに環境問題としての原発(端的に言ってしまえば、CO2を出すのか、放射能にまみれるのか)、廃炉と核廃棄物の問題、電力自由化が促進されない理由…等々、赤線を引いた箇所がたくさんあって、原子力に変わるエネルギー政策の転換が急務であることを痛感させられる。特に、今回の事故で明るみに出た使用済み燃料棒の中間貯蔵と「崩壊熱」の問題は、福島の事例があろうがなかろうが、いずれ近いうちに表面化してくるはずの重大な問題で、国民はもっとこういうことを知らなければならないと思った。
人間環境からの絶対隔離が条件である原子炉を54基も持つということが、どういうことなのか。それはエネルギーの枠に収まらない問題であることを、この本は教えてくれる。
これが十年前の書であることを考えると、「見て見ぬふり」「臭いものに蓋」をしてきたツケを今払わされているのだと思わずにいられない。(そうした態度で先送りしてきて行き詰まっているのは原発だけではない。少子高齢化と年金・社会保障、米軍基地だってそうだ)



昔、あれはまだバブル期だったと思うのだが、原発をテーマにした「朝まで生テレビ」に広瀬氏、高木氏が出演していたのを見た記憶がある。内容はもう忘れてしまったけれど、彼らが真剣に原発危機を訴えれば訴えるほど、賛成派ははぐらかし、必ず嘲笑気味にまぜっかえして脱線の多い噛み合わない討論だったことを、うっすらと覚えている。
この両氏は同席していなかったと思うので、それぞれ別の回の番組だったかもしれない。特に高木氏の、どんなに揶揄されようと愚直なまでに丁寧に事実を伝えようとする誠実な態度は強く印象に残っている。



この二冊には内容的に重複する部分も多いのだが、同じ内容説明でも著者の性格によるものか、ニュアンスが若干違うのが面白い。もはや原発が安全だとか安いとか、信じる者などいまい。原発擁護の論理はとっくに破綻しているのだ。
なのに、なお原発を運転しないと今夏の電力供給が滞るという脅迫的な言辞が政府から出ている。なぜそれほどまでに原発にこだわるのだろう? どのみち近い将来に続々と寿命を迎えて廃炉の道をたどるのが明らかな原子力発電にここまで固執するのはなぜか? 容量限界近くまで貯めこんだ放射性廃棄物の貯蔵場所も処理方法もないくせに。汚染水の流出だって止められないくせに。何かそうしなければならない事情でもあるのだろうか?
原発の海外輸出だとか、どうせろくでもない理由を隠しているのだろうとは思うのだが、今般の事故対応を通じて、政府や半公的機関たる電力会社が自ら招いた不信を解消しようとせず、逆にますます増長させ続けている感覚の鈍さこそが致命的だと感じる。彼らがはしたなくもたれ流しているのは放射能だけではないのだ。原発の扱い一つをとっても、この国は健全な民主主義国家といえるのだろうかと疑わないでいられない。



今や‘反・原発’‘脱・原発’の機運はブームであり、ある意味でファシズム的な熱を孕んできてさえいると思う。自分としては、感情的な賛成or反対の二択ではなく、ニュートラルな視点で続けていくつか関連本を読んでみるつもり。

この男の感性の鋭さにも、あらためて敬意を表したい。 “COVERS”をリリースしたとき、清志郎もまた、広瀬氏や高木氏と同様に異端視されカルト扱いされたのだった。そして、その答えはこの熱唱にこめられている……(涙。。。サマータイムブルースも必見)