原発のウソ、私たちはこうして「原発大国」を選んだ


‘電力詐欺’と‘原子力帝国主義’、‘原発の犬’


小出裕章 / 原発のウソ (182P) / 扶桑社新書・2011年 6月 (110618−0623) 】


          


原子力研究にたずさわりながら、いち早くその危険性を警告してきた科学者による書き下ろし。専門家として今回の福島の事故を防げなかった自らの非力を悔い、子供たちに汚染環境を残してしまったことへの無念を執筆動機とする。
特に第一章「福島第一原発はこれからどうなるのか」、第三章「放射能汚染から身を守るには」には、福島の現状と将来に関する率直な見解が示されている。

  • 広大で豊かな穀倉地帯だったチェルノブイリは事故後、ゴーストタウン、放射能の墓場と化している。福島第一の現場周辺もそうならざるをえないだろう(避難住民への楽観的な見通し説明はかえって罪深いものである)
  • 汚染された校庭土、がれき、汚泥の現実的な処理としては「放射能の墓場」をつくる以外にない
  • 東電と原子力安全・保安院、安全委員会の記者会見は事前登録制。フリージャーナリストは保安院で審査する(厳しい質問をするメディア記者、フリー記者は排除される)
  • われわれは今後数十年にわたって放射能とつき合うことになった。3.11後の日本の現実を直視するなら、放射能がどういうもので、どんな危険があるのか、知らないではすまされない
  • 「ただちに健康に影響はない」というのは「急性障害は起きない」という意味で、まったく影響がないということではない
  • どんなにわずかな被爆でも傷ついたDNAは分裂を繰り返して増えていく。特に細胞の活動が活発な胎児と子供は放射線の感受性が強く、大人とは区別した対策が必要
  • 文科省の安全基準は、事故がすぐに収束するという甘い見通しでつくられたもので、「現実の汚染に合わせて」変更されている
  • 原発を造れば造るほど儲かるシステムのために電力会社は原発依存度を高めてきた


大量の放射性物質が飛散・流出してしまった現実を踏まえて、これから数十年、放射能とつきあって生きていかねばならなくなったことを、すべての日本人が自覚しなければならない。「ただちに影響が」あろうがなかろうが、内部被爆の可能性が高まったことは避けようもない事実として受け入れていかねばならない。
低汚染の食物は大人と高齢者が積極的に引き受け、低年齢層には絶対に与えないようにするなど、われわれの「叡智」が問われるのはむしろこれからだとする小出氏の態度には勇気づけられた。



……だが、その「叡智」を疑いたくなる事実も次々に明らかにされている。
7/2付中日新聞東芝と米政府がモンゴルに核廃棄物処分施設を建設するという記事。

  http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2011070202000039.html

国内がだめなら海外後進国へという‘原発帝国主義’は、電力会社のみならず電気メーカー、大手ゼネコンも絡む国家的一大プロジェクトのはずで、原発停止=原子力産業をつぶすわけにはいかないメンツがある。多くの国民が3.11を転換点と考えているのに、彼らにとって原発はいつまでもただのビジネスにすぎない。
たぶんここには「支援」とか「振興援助」名目で過疎地に原発を立地してきたのと同じ差別構造がある。それは大東亜戦争大義にも似ていると感じるのは自分だけだろうか?


九州電力玄海原発運転再開をめぐる「やらせメール」。町長一族と九電の癒着。玄海にかぎらず原発周辺地域では当たり前のことなのだろう。だとすると、原発のある全自治体の選挙からやり直さなければならないのだろうか。「脱・原発」への道筋を思うと、ちょっと気が遠くなる。
この数十年の間に社会構造に根づいた利権としての原発。自分たちも必ずどこかで関与し、恩恵に浴してもきたはずだ。これから「脱・原発利権」だって伸長してくることだろう。問われている叡智とは、脱・原発を唱える側の民主主義の感覚でもある。



武田徹 / 私たちはこうして「原発大国」を選んだ-増補版「核」論 (299P) / 中公新書ラクレ・2011年 5月 (110709−0714) 】


          


原子爆弾の唯一の被爆国でありながら(第五福竜丸を含めて三度の被爆経験がある)、日本は核エネルギーを導入し原子力発電所を乱立してきた。科学技術のみならず政治、思想文化など多面的な斬り口で敗戦国日本の原子力受容史を構成していく。推進と反対のどちらにもくみしないスタンスで両派の埋まらない溝を埋めようとする試み。
1950年代から2002年まで九章に渡って、時系列に沿った社会評論形式で原子力エネルギーの動向と世論の変化を追っていく。初代科学技術庁長官が正力松太郎だったことや、電源三法原子力損害賠償法の成立の経緯など興味深い史実も多く紹介されていて、また、原子力を通じた独特な視点によってユニークな時代論にもなっている。


たとえば、広島・長崎の悲惨な体験がありながら日本が原子力エネルギーを受け入れたことについて、核の危険な「影」を思い知ったからこそ、その「光」(核の平和利用)に吸い寄せられたという見解は新鮮だった(やや修辞が過ぎるきらいはあるものの)。
また今でこそどの自治体も原発導入には慎重だが、高度成長期には新エネルギーへの期待とそれがもたらす明るい未来観には昂揚がともなって、原発誘致に名乗りを上げる自治体は少なくなかったのだという。
自分の親たちがまだ若かった頃。彼らが夢見た未来と2011年のこの現実とを照らし合わせて、彼らの無知や無邪気さを責める気持ちにはなれない。
「一九七四年論 電源三法交付金」は、原発拡大路線の時代背景を探りつつ、現代の原発問題にストレートにつながるスタート地点を示している点でも秀逸だった。


だが、それまでのユニークな各論から一転して、実際に原発事故が起こり反対運動の機運が高まった八十年代と九十年代の二つの章は、びっくりするほどお粗末な内容だった。
「一九八六年論 高木仁三郎」の章では、高木氏の著作のごく一部を抜粋して、必要以上に宮沢賢治への傾倒を強調する。そして彼の発言は科学的ではなく反原発運動の言語だと断定してしまう。高木氏が生涯をかけて訴えてきたテーマにはまったく触れようとはせずに。こういうやり方は「スイシン」派の常道のような気がするのだが、いかがか? 高木仁三郎の科学観を語るのに自身の非科学的態度にはまるで気づいていないのは致命的。
「一九九九年論 JCO臨界事故」では、反対派の圧力で原発作業員の士気が下がって事故が起きるとか、反対運動が盛り上がると原発施設での働き手がいなくなって作業員の質が悪くなるとか、(「ヒューマンファクター」なんて単語でごまかしているけど)ずいぶん乱暴なことが書いてある。JCO事故の一因は反対派にもあるのだそうだ(笑) しょせんこの人も「センセイ」にすぎないのだろうか。


著者は「スイシン」と「ハンタイ」の二項対立を前提として、客観中立であろうとする。だが、そもそも原発を国策として推進してきたのは発言力も影響力も圧倒的な政官財界であり、それに比べると反対派は少数の科学者や市民グループの微々たる勢力でしかなかった事実はまったく無視されている。これを横並びの現象として対等に扱おうとするのは事実の歪曲であり、概念をもてあそんでいるだけであって絶対にフェアな態度ではない。
本書前書きで著者は、本当に検討すべきは「核か、核でないか」ではなく「弱者を虐げる社会か、そうでないか」だと記している。推進と反対のどちらに弱者が含まれているかに気づかないのだとしたら、デリカシーのなさをまず恥じた方が良いのではないか。
原発反対の逆風は推進側の懐柔策もエスカレートしてサービスも増すから自治体には好都合なのだとか、反原発論者の中には自分たちの主張の正当性を訴えるために大事故の待望論があるとか、三流紙の三面記事みたいなネタを持ち出すことで自らの品位を下げていることにも気づいた方がいい。中曽根、正力、角栄に比べれば原発反対派がマイノリティなのは誰の目にも明らかじゃないか。そこに目をつぶるのなら中立なんてありえない。
もう一点。「どちらでもない」という態度は往々にして体制側に加担することになるのを肝に銘じておきたい。そういう態度こそが「原発大国」への道を黙認してきたのだから。態度保留者を取りこむノウハウに長けているのは権力者の資質の一つなのである。


科学にもよらず政治にもよらず社会思想にもよらない曖昧な立脚点は、過去を語ることはできても現実に対しては説得力を持ち得ない。3.11後の今となっては決定的に現実感に欠ける。ノンフィクションのようだが、実はこの本はフィクションなのだ。そうわかって読むのなら減点はもっと少なかったかもしれない。