ハ・ジン / 待ち暮らし


信頼するRさんとHさんの感想を読んで面白そうだったので自分も読んでみた。



【 ハ・ジン / 待ち暮らし (350P) / 早川書房・2000年 (110724−0728) 】

WAITING by Ha Jin 1999
訳:土屋京子


            
        

いろいろ言いたいことがあるのは楽しんで読んだからに違いない。ただ、今回の「言いたいこと」は小説としてどうこうというよりも、まず同姓としてこの主人公の男に反感を覚えるからで、読み終えて、まだイライラしながらこれを書いている。
作品の大半を占めるのは、世間的には「痴情のもつれ」とでも片づけられそうな話である。田舎に妻子がありながら、単身赴任先の同僚女性に浮気心がめばえて、十八年もの歳月を経てやっとその女性との結婚にこぎつける。そこまではまあいい。そういうこともあるだろうと、この辛抱強くも少々滑稽で悠長な話の成り行きを見守ることはできた。
でも、問題はそのあとだ。念願叶った結婚後もこの男はちっとも変わらないのだった。妻が妊娠しても子供を望まないようなことを言い、赤ん坊の夜泣きと妻のヒステリーに自分が望んだ結婚生活はこんなものではないと思い悩んでめそめそする。じゃあどうしたかったんだよ!と怒鳴りつけたくなったのだが、思い出すといまだにムカムカしてくる。
読んでいる間は、そもそものこの男の憂鬱は両親のいいなりに結婚したことにあったはずだと思っていたのだが、今は違う。自分の不幸を女に伝染す男は最初から誰とも結婚すべきじゃないのだ。

 「なるほど、やっとわたしの意見を聞く気になったわけね。教えて、どうして急に気が変わったの?あなたもけっこう不良ねぇ。心正しき革命将校を誘惑しようなんて」
 「お願いだから、何も聞かないで」
 「呉曼娜同志、きみは、自分が何をしようとしているのか、わかっているのか?正気の沙汰とは思えんぞ。え?」海燕は、親指を立て人差し指を伸ばしてピストルの形にした手を曼娜に突きつけた。
 


……と言ってしまうと実もふたもないので、つとめて冷静に本の感想を書いてみよう。
中国の小都市を舞台とするこの作品の時代背景は文革〜開放期だが、著者の意図によるものかどうか、あまり政治色は色濃くない。主人公の孔林(クォン・リン)は軍医であり階級的には将校。不倫は軍規に反するのに、この男からは危険を冒しているという恐怖感はあまり感じられない。革命異分子として告発されれば恋愛の成就はおろか生命だって保証されないというのにだ。かといって、相手の女性ともども道ならぬ秘めた恋に激しく身を焦がすというのでもない。
孔林は器量も良く理知的で温厚な好人物として描かれる。インテリにありがちなその反面のひ弱さは文面では隠されていて、優柔不断なネガティブな面が後半にいくにつれ、だんだん表に出てくる。
誰もが粛正の火の粉が自分の身に降りかかるのをおそれ、首をすくめて生きていた時代。文革の嵐が猛威をふるう最中に、妻との離婚という、まったく個人的な事情に林が専心しているのにはどうしても違和感がぬぐえない。彼のような男性は、一人っ子政策で甘やかされて育った青年層が増えているという現代中国に多いのではないかと思うし、べつにこの作品の時代設定は文革期でなくても良かったのではないかと、ちらっと思ったりもした。



妻がありながら別の女と所帯を持ちたいと願う孔林が悪いのか。妻帯者に近づく曼娜(マンナ)が悪いのか。田舎で夫の言うなりに暮らすことが当然だと信じこんでいる無学な妻、淑玉(シュユイ)がおかしいのか。
それぞれに善良といっても良い三人。特に誰かが悪いわけではないのに、でも、何かがおかしい。どこにでもいそうな人たちで、でもまったく救いようのない愚か者たちのようにも見えるのだが、自分にだってどこか彼らのような傍観者的な、他人まかせな態度で生きている部分があることを気づかせられたりもして(林の態度が無性に腹立たしいのは、彼に自分の姿がだぶったせいもあるのだろうか?)、登場人物にそうした親近感を抱いてしまうと、そのぐだぐだ感が病みつきになるのがこの作品の不思議な魅力。自分などは、やっと結ばれた林と曼娜の後日談など無しで、晴れて離婚が成立するところでこの作品が終わっていたのなら、きっと手放しで絶賛しただろうと思う。

 淑玉の言葉を聞いて、自分が留守のあいだ妻は淋しい思いをしていたにちがいない、と、林はようやく気がついた。淑玉にも淑玉なりの考えや感情があろうとは、思ってもみなかった。もっと厄介なことに、淑玉は、自分たち二人がこの先ずっと夫婦でいるものと、一点の疑いもなく信じている。なんと無邪気な女だろう!


自分の主人公・孔林に対する違和感は、そのまま著者の執筆態度、というか環境にも当てはめることができるように思う。
この作品はアメリカで、英語で書かれた。これを中国本土で中国語で出せるだろうか。もし中国で書かれ、読まれるのだとしたら、主人公に描かれるべきなのは淑玉ではなかったか。彼女の立場からなら、林を身勝手で非情なインテリ男として書けるはずだ。
ドメスティックな中国文学に付き物の「血と土地への執着」は、この作品には匂いすらない。どろどろの愛憎劇に発展してもおかしくはないのに最後まで淡々と保たれる無臭性はこの亡命系作家の個性なのかもしれないし、そういえばやはりアメリカで祖国を書くイーユン・リーとも似た感触はある。ただし、彼女の作品はフィクショナブルだが、祖国同胞への愛情はより鮮明に表明されている。
本作中で良くも悪くも「中国的」なリアリティを感じさせるのは、ところどころに登場する淑玉の弟や曼娜を傷つけた男、林の親友の妻が発する、眉をひそめさせる下卑た悪態や罵倒の言葉だけだ。あるいは分娩台で陣痛に耐えきれず夫に向かって浴びせる曼娜の痛罵。あの絶叫の中にこそ真実が含まれていたのではなかったか。
また、同じように印象的だったのが、結婚を控えて荷物を整理している折に林が曼娜の宝箱を見る場面。そこには元恋人のラブレターといくつもの毛沢東バッジが大事にしまわれていて、林はそれをくだらないと一笑に付す。この男が体制側にも反体制側にも距離を置いた無菌室のような所で生きている存在であることを示すエピソードだったと思う。
何事にも、われ関せず。文革期なのに文革期らしくない。中国人なのに中国人っぽくない。自分が感じた違和感の正体とはそういうことだったのだろう。
自国民(劉暁波氏)へのノーベル平和賞授与を認めなかったり、大事故を起こした鉄道列車をすぐ埋めちゃう国なのである。そういう清濁併せ呑みつつ、なおも突き進むパワーを感じさせる骨太な中国文学を読みたい。この作品の後ではなおさら強くそう感じる。