思想としての3.11 、朝日ジャーナル増刊


東京新聞7月28日朝刊 「資源エネルギー庁の原発情報監視 本年度7000万円で契約」


こんな仕事があるとは…。こんな税金の使い道があるとは…。ご苦労さま。原発ビジネス万歳。

で、こういうことはエネルギーの問題なのだろうか。民主主義の問題ではないのかという思いが日増しに強まるばかりだ。



【 思想としての3.11 (206P) / 河出書房新社・2011年 6月 (110717−0728) 】


・内容
 あの日から何が変わったのか、何が変わらないのか、何を変えるべきなのか。生、死、自然、震災、原発、国家、資本主義…。吉本隆明鶴見俊輔山折哲雄中井久夫木田元加藤典洋から酒井隆史立岩真也、高祖岩三郎まで。思索者たちがいまこそ問う。


          


十七人の哲学者・思想家が東日本大震災に寄せた思考。被害は底なしの様相を呈し、原発事故も危機的状況で推移していた中で、日本を代表する思索者たちが何を考えどんな言葉を紡ごうとするのか興味があった。
言うまでもなく、彼らは被災者ではない。直接的な被害は免れて、形のうえでは3.11前と変わらぬ日常を送ることが可能な人たちの一部である。多少の社会不安こそあれ、自らの生活が劇的に変わったわけではないのに、どんな意識変化が芽ばえ、それをどう批評的に伝えようとするのか。
圧倒的な現実の惨禍を前にして当事者ではない者の声は虚ろに響く。あれから五ヶ月が過ぎようとしている今でもまだ「思想化」するには早急かとも思う。しかし、今の時点で、語れることを語っていくことも大切だろう。後に残るのは生き残った者の言葉だけなのだから。



知識人たちの言辞なので、自分には理解できない(ついていけない)文章も多い。
その中で巻頭に配された「佐々木中/砕かれた大地に、ひとつの場処を紀伊國屋じんぶん大賞2010受賞記念講演「前夜はいま」の記録)」の異形のたたずまいはきわだって感動的だった。
まず、発言を強要し、全体の把握などできていないのに把握しているふうを装う風潮にファシズムを危惧する。そのうえで、整然と過去の大地震原発事故の頻度を列挙して、東日本を襲った今回の地震がたしかに‘Only One ’の事態でありながら、同時に‘One of Them’でもあるという認識を示す。それからニーチェドゥルーズの引用を挿んで、唐突に坂口安吾堕落論』の読解を始める…… という展開はあっけにとられるほど鮮やか。明示はされてないが、彼もまた、今回の災厄を第二次大戦の終戦に重ねて見ているふしがあって、それで1947年の『堕落論』へと連想が進んだのかもしれない。
どうしても陰鬱で淡調な論考が多い本書にあって、講演録という体裁のこの一篇だけが不思議と明るく、もっと言ってしまえば、勇気づけられる内容だった。恥ずかしながら佐々木氏の語る内容を全部理解したなどとはとても言い難いし、論の学問的な正当性についても自分には判断できない。それでも、直感的に文学と大震災をつなぐ回路がパチッと小さな火花を閃かせて接続される瞬間が見えた。肯定の哲学が持つ力の大きさがひしひしと伝わってくる。
その見せ方語り方。レトリックを‘藝’として表現できてしまう。さすがに「哲学」なんぞを商売にするだけのことはある。これを読めるだけでも本書の価値はあると思う。




【 緊急増刊 朝日ジャーナル 原発と人間 / 2011年 6月 】


          


懐かしいけれど、出るべくして出たという感じもする「ジャーナル」原発本。表紙は横尾忠則で、目次には広瀬隆、石橋克彦、小出裕章氏らの名が並ぶ。鎌田慧高木仁三郎さんの名前も。巻頭と巻末は池澤夏樹と吉岡忍、両作家の怒りと嘆きの文章が掲載されている。
中でも特に印象的だったのは「坂本龍一/昨日までの世界を続けるために」。原子力の専門家ではない彼が原発に反対する理由を率直に語っている。その自然な拒否反応は、まったく自分の感覚に近くて、‘教授’には失礼ながら、親近感がいや増したのであった。
坂本さんの積極的な発言に比べると、彼以外のミュージシャンは意外なほど寡黙だ。日本の音楽産業も電力業界の一部ということなのだろうか。音楽表現が‘原発ファシズム’の中でしか機能しないのだとしたら、やはりエネルギーではなく民主主義の問題だという気がする。



「脱・原発」の道筋は、もちろん科学・経済・環境等の専門家の政治論議を重ねたうえで進められていくのだろう。それを予算とコストの数字だけの議論にしてはならない。電力が安定供給されなければ日本経済は空洞化すると財界は主張しているが、福島の農業や畜産はどうなっている? 牛の処分。稲藁の処分。牛肉の流通経路の追跡と回収。しかし、すでに食べてしまった人もいるだろう。出荷停止。全頭検査。そのために費やされる時間と労力のロスだって原発のコストなのだ。
牛と藁だけの話ですむわけがない。もはや福島周辺だけにとどまる話でもないのだ。思いがけない場所で、思いがけない高レベルの放射線が検出されるだろう。把握しきれず、全件に対応できなくなって、いずれ「手遅れ」だと認めざるをえなくなるのだろう。
面倒くさくて鬱陶しい。そういう事態を招く可能性のある施設に対する生理的な拒否感は人間の自然な感覚だ。今回の原発事故は、それを無視して「財界の要望」を尊重してきた不自然の帰結ではないのか。なのにまだ不自然な要求を通そうとする彼らの頭にあるのは自分たちの商売のことだけだ。これはエネルギーの問題ではなく、資本主義の問題である。断じて、経団連だけが日本の経済なのではない。