佐々木中 / 切りとれ、あの祈る手を

佐々木中 / 切りとれ、あの祈る手を _〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話 (214P) / 河出書房新社・2010年10月 (110731−0804) 】



・内容
 取りて読め。筆を執れ。そして革命は起こった。思想界を震撼させた大著『夜戦と永遠』から二年。文学、藝術、革命を貫いて鳴り響く「戦いの轟き」とは何か。 閉塞する思想状況の天窓を開け放つ俊傑・佐々木中(ささき・あたる)が、情報と暴力に溺れる世界を遙か踏破し、あまたの終焉と屈従とを粉砕する、限りなき「告知」の書、登場。白熱の語り下ろし五夜十時間。


          


『思想としての3・11』収録の‘砕かれた大地に、ひとつの場処を’の昂揚感をひきずって佐々木中さんの単行本を買った。時系列的には本書が昨年あって、今年の「紀伊国屋じんぶん大賞」受賞ということになる。「語り下ろし」と講演記録。共に‘トーク・ライブ’形式であり、本書の流れであの講演があったことがわかる。
語られていくのはルター(宗教改革)の、ムハンマドイスラム教開祖)の、教会法がローマ法によって近代法として整備されていく、〈革命〉論。というと難解に思えるが、わからないところはそのままに読んでいく。宗教史の詳しい解説書なら他を当たればいい。すっかり衰えた脳と、じっくり考えるだけの体力のなさは棚に上げて、佐々木氏の口調と話術に乗っかっていく。
だから自分には、人類史上の偉大な改革者と革命的運動の功績を挙げていく本書で語られているのは、実はほんの一つか二つだけのことに感じられた。それしか感得できなかったということかもしれないが、それがすべてだという自信もある。

 しかし、考え、書くという営みに挑もうとするときに、私にはこのニーチェの言葉が忘れられなかった。彼の本を読んだ、というより、読んでしまった。読んでしまった以上、そこにそう書いてある以上、その一行がどうしても正しいとしか思えない以上、その文言が白い面に燦然とかぐろく輝くかに見えてしまった以上、その言葉にこそ導かれて生きる他はない。その一行の文字の黒みの、その光に。だから私は情報を遮断した。無知を選び、愚かさを選び、二者択一の拒否を選び、アンテナを折ることを選び、制限を選んだ。あるいは報い無さを、無名を、日陰をね。


自己流のひねくれた解釈を試みるなら、佐々木氏はなぜそれを言うために ―フランス革命清教徒革命ではなく― 日本人になじみの薄いこれらの変革を素材とし、また、書くのではなく「語り」のスタイルを選んだのか、というところに興味は向く。
なぜこれが「語り下ろ」されねばならなかったのか。
一応、少人数の担当編集者が聞き手として同席していたようだが、「繰り返します」「いいですか、何度でも言いますよ」とくどいほどに何度もポイントを確認し念を押しながら進める口調は、さながら不特定多数の初心者が含まれた聴衆向けの講座のようだ。しかし、氏が大学教授であり日頃から学生相手に喋りなれているとはいえ、ここにはどこか特別なライブステージの熱気もある。
現実にはホテルかどこかのビルの一室で録音機械を前にした密室のモノローグにすぎないのに、パブリックな、かつての教会か公会堂か、あるいは街の四辻の演壇に立って自説を語りかける説教師か扇動者の姿もイメージされる。



哲学者だって書かねばならないのである。語らなければならない。どんな明晰な思考があっても、書きもせず語りもされなければ思想とはならなかったのである。哲学者を自称するのは誰でも可能だが、実証されるのは文字と言葉の著述以外にはありえないのだ。
1850年頃、人口4000万人で字が読めたのはその一割にすぎないロシアに、ドストエフスキートルストイプーシキンツルゲーネフが存在したというのはどういうことか? 人口の九割が全盲の時代。むろん、残りの一割400万人すべてが文学書を読むわけではないのにだ。
出版社に見捨てられた赤貧のニーチェ自費出版で『ツァラトゥストラ』第四部を四十部だけつくって七部を知人に配布しただけだったという。世界にたった七部のツァラトゥストラニーチェは発狂死した。では、彼は負けたのか?
近代を通じ未来へとつながる革命史の中に、われわれも生きている。その隊列に自分もいて、あなただっているのだ。そんな連帯感を想起させるためにも、佐々木氏はかつての哲人たちと同じ場所から語ろうとしているのかもしれない。

テクストは広い。それはもっと広いのです。自らの身体という紙に、神の所作を表す舞いで書いてもいい。自らの舌という紙に、神の言葉が染みこんだ蜜で書いてもいいのです。何に何を書いたらそれは「掟」なのか。これは膨大なヴァージョンがあるのです。そうです、これをさらに「文学」と呼ぶことは可能ではありませんか。何に何を書いてもそれは文学なのだ。そしてそのことによって、われわれは ―そうですね、オーデンを引きましょう。われわれはこの人間の営みによって、「われらの狂気を生き延びる道」を見いだしてきたのです。いつだって、何があったってね。


本を書き、読むということ。その行為が秘める危険な魔力と愉悦。本質的に難解であるはずの他人の著書などわかってたまるかという気持ちとは裏腹に、その書を読まずにいられないという読書体験がもたらすもの。
読んでいてふと思い出したのは古川日出男『アラビアの夜の種族』だった。あのアラビアン・ナイトの千夜に比せば、たったの五夜。それでも佐々木氏の‘語り部’としての才覚の冴え具合は、彼が「災いの書」を探すアイユーブであり、ズームルッドでもあるのだと思わせる。
人類史の革命の本体を明かそうとする五夜は、暴力による主権の奪取を目指すのではない、失われたものを取り戻す、抹消されようとするものを奪還しようとする伝承の試みでもあった。書類化されない書物は‘革命機械’だったのである。
思想うんぬんは別にして、自分の読書態度が氏が指摘するように、フィルターをかけて無害な情報化するだけの作業に堕していないか反省させられた。「読み、読み換え、書き、書き換える」歴史の連続性の中に自分も存在するのだとしたら、いつか来る勝利のために、今日もまた、読もうではないか。


そういえば、近頃はさっぱり見かけなくなったけれど、自分が若い頃には「文学と革命」を表題に掲げた批評誌がけっこうあった。長髪とジーンズの時代の、議論のための議論のようでもあり、解答などなさそうな永遠のテーマに、後から来た佐々木中氏はあっさりとケリをつけてしまった。思想界の新星は、新世代のようで、実は古い世代への目配りも忘れない‘俊英’だと思う。
今さら「こんなものに知的好奇心を刺激される愚か者」を蔑む勢力だって容易に想像できる。でも、知性レベルを序列化して自分を上位に見立てようとする者たちこそが反動なのであって「夢を見ているのはどちらか」と斬り捨てる歯切れ良さも心強い。
せめてもう十年ぐらい前にこういう本に出会っていたかったな……という気持ちもある。