梯久美子 / 昭和二十年夏、子供たちが見た日本


七月最終週から東京・中日新聞夕刊に梯さんの連載「100年の手紙」が掲載されている。百年前、1911年(明治44年)から現在までの歴史の真実を証言する貴重な書簡を読んでいくシリーズ。これも素晴らしい成果になりそうな予感がしている。


          




【 梯 久美子 / 昭和二十年夏、子供たちが見た日本 (314P) / 角川書店・2011年 7月 (110809−0812) 】



・内容
 疎開先の村で杉並木に向かって歌いかけた角野栄子進駐軍ジープに憧れた児玉清。空襲で鉄骨だけになったピアノを見た舘野泉満洲芸者置屋で育った辻村寿三郎。大阪大空襲の日、火焔ドームの中を逃げ延びた梁石日。バラの鉢植えを持って疎開し、拾った子雀を育てた福原義春アッツ島サイパン島硫黄島に慰問に行った中村メイコトルストイチェーホフを燃やして暖を取った山田洋次。焼け跡の闇市予科練帰りの青年が殺されるのを見た倉本聰ピョンヤンからソウルへ、闇のトラックで38度線を越えた五木寛之
太平洋戦争当時、子供だった十人が見た終戦、そして戦後日本とは。世代を超えて現代の我々に送り届ける戦中派のメッセージ。


          


現在、日本人の平均寿命は男性79歳、女性85歳。本書は子供の頃に終戦を迎えた著名人十人の証言集である。その中の一人、児玉清さんが五月に亡くなられたのは記憶に新しいところだが(享年77歳)、いわゆる「戦中派」の世代の声を聞くことができる時間は年々減っていく。
いささか不謹慎だとは思いつつも現実的なことを考えてしまうのは、ちょうど一年前の『昭和二十年夏、僕は兵士だった』の自分の記事を読み返したからだ。昨年の今頃しきりと報道されていたのは「高齢者の所在不明問題」だった。一年が過ぎて今ではすっかり忘れられているが、ここでいう高齢者とは75歳以上の「後期高齢者」であり、昭和初期生まれの戦時体験がある方たち、ちょうどこの『昭和二十年夏、子供たちが見た日本』にとりあげられている方たちと同世代も多いはずなのである。
戦争を生き抜き、また戦後を生き抜いた人々を、現代は「所在不明」にしてしまう社会であるということ。ただ福祉(厚労省)に限った問題ではないと思う。最新の被災者には過剰なまでに同情を押しつけようとするのに、六十六年前の生存者にはきわめて冷淡なのだ、われわれは。飛躍も決めつけも過ぎるかもしれないが、やはりどこかおかしいと思わずにいられない。

 みんな口々に「僕の家は焼けたんでしょうか」って聞く。「残念ながら焼けてしまった」と先生が言うと、その子たちは万歳万歳の大合唱なんです。僕もそうでした。お国のために役に立ったんだと、誇らしいような気がしてね。


生きながらえて戦後を迎え、功成り名を遂げたあととなれば、つらくてひもじいばかりの戦時の記憶も懐かしく振り返ることができるものなのだろうか。
各界第一人者となった方々が、まだ何者でもなかった子供時代。戦争の行方など知る由もなかった時代。大人の世界がどんな状況にあろうが子供には子供の社会があって、彼らなりの知恵をしぼって毎日を過ごしていた。ここにはたしかに『僕は兵士だった』『女たちの戦争』にはなかった、無邪気で罪のない明るさ、たくましさがある。
空腹に耐えきれず歯磨き粉や絵の具を食べる。白が一番甘いという噂が広まって、みんなが期待と不安の入り交じった顔で味見している光景が目に浮かぶ。(自分は絵の具をそのまま食べたことはないが、水に溶いたのがカルピスの味がするというので飲んでみたことはある)
おかしいのは倉本聰氏も語っているように、大人になって昔話をしていると、誰も彼もが絵の具を食った経験があるというのだ。腹がすいた子供の考えることはどこでも一緒ということか。



幼い頃から子役タレントとして人気を博していた中村メイコさんは慰問にひっぱりだこで、全国各地はおろか、サイパン島硫黄島アッツ島にまで行った(いずれも後に玉砕する)。軍用機や潜水艦に乗せられて行くのだが、搭乗の際には目隠しをされ、行き先も告げられずに運ばれる。あるときには出撃寸前の特攻隊の前で歌ったことまであるという。そうして戦争中は日本兵を鼓舞するために飛び回っていたのが、終戦となると今度は駐留米軍からの慰問要請が絶えなかったのだそうだ。
児玉清さんの回想も印象的で、あの温和な表情が目に浮かぶ。国威発揚のために新しい軍歌が量産されていて、国民学校ではそういう歌ばかり歌わされていた。軍国少年を自負していた児玉少年は、あるとき帰還兵の前で得意になって歌ってみせたことがあったのだが、その兵士はその歌を知らなかった。本来なら兵士たちが歌うためにつくられていた軍歌が、いつのまにか子供たちしか知らない歌ばかりになっていたのだ。
今となっては(そして、生き残ったからこそ)笑って話せる逸話の数々に、大人が思いもよらない角度から「戦争」を見ている子供の視点のユニークさにはあらためて驚かされる。
子供が見ているのは、せいぜい半径数十メートルの世界で、戦争の大局なんてわかっていない。でも、その小さな円を子供の数だけ描いていけば、かなり正確に当時の日本を再現できるのではないか。本書のわずか十人のそれぞれの体験にも大なり小なり重なりあう部分が必ずあって、続けて読んでいると、神経衰弱かパズルをやっているような感覚に襲われる瞬間があった。特異な個人的経験だったはずのものが実は共通体験であったという裏には、ギリギリそこまで追いつめられていた現実があるのだろう。
代表的な事例を一つだけ挙げれば、どの子供も身近に「この戦争は負ける」と断言している大人がいたということだ。日常の中の些細なことのはずなのに、彼らはみな敏感にもそれを記憶していたのである。

 作家としてこれまで生み出してきた作品は、勉強して書いたものではなく、心の中にひとつずつたまっていった出来事や気持ちが、あるときすっと表面に浮かび上がってきて書けた気がする、と角野さんは言う。
 「このごろ、つくづく思うの。思い出って未来のためにあるんじゃないかな、って」


自分はジブリアニメというのをこれまでに一度も見たことがないのだが、「魔女の宅急便」原作者の角野栄子さんの回想には泣かされた。「思い出は未来のためにある」という彼女の言葉が胸に沁みた。
本書後半には倉本聰山田洋次五木寛之氏と、戦争体験を投影した作品をつくってきた人たちが並ぶ。彼らの言葉は、ストレートな‘思い出話’として語る人たちとは明らかにニュアンスが違う。
そうした語りを聞きながら、著者は彼らの親たちの苦境に思いをはせる。語られる少年少女期と目の前にある姿を断絶したものとしてでなく、連続性をもってとらえようとする。終戦が一つの転換点であったことは事実だが、人間そのものが変わったわけではないことを確認する。戦争の悲惨さをことさらに強調しようとするのでなく、取材する一人ひとりに対してそういう作業を繰り返すことで浮かび上がってくるもの、それがこの三部作共通のテーマとしてあるようだ。


          


この感想を書き始めた昨日の夕刊〈あの人に迫る〉に梯さんのインタビューが大きく掲載されていて、偶然に驚いた。
記事の最後に大震災に触れた部分があるので、その言葉を引いておく。

 被災した子供たちはいずれ体験を語り始めます。私も何十年後かに、批判の対象になります。なぜ原発を止められなかったのかと。それは戦争を始めた日本と同じじゃないですか。原発事故はまだ進行中で、一人一人に責任があります。戦争は歴史の転換点だと思って取材してきたけれども、大震災後のいまもまさにそうなんです。

 中日新聞8/12夕刊より