野坂昭如 / 「終戦日記」を読む


野坂昭如 / 「終戦日記」を読む (240P) / 朝日新聞出版・2010年 7月 (110813−0816) 】


・内容
 東京大空襲、原爆投下、玉音放送。新聞・ラジオでそれを知った大人たちは日記に何を書き残したか。当時十四歳だった著者は何を思ったか。中野重治高見順永井荷風大佛次郎ら一流の知識人たちの日記をもとに、日本人が「しようがなかった」で済ませようとしている、あの時代を振り返る。


          


‘焼跡闇市派’を自認する野坂昭如氏(昭和五年生まれ)が当時の知識人・文化人の日記をひもときながら終戦時を振り返っていく。
日本人は戦争を天災の如くに受けとめていて、本来ならば自分たちの手で果たすべき戦争責任の追及も曖昧なまま戦後を過ごしてしまったという述懐には、開戦から七十年の太平洋戦争を検証する現代の言葉とのあいだに、埋めようのない温度差がある。
それはそのまま『火垂るの墓』に描いたような実体験をしていた少年と、世相からすれば優雅にも日記なんぞしたためていることができた文化人の、戦争の実感度の違いでもあるのだろう。着のみ着のまま焼け出された人と、一方、食糧難、灯火管制、言論弾圧の時代にラジオを聞き新聞を読み、書き物をすることができる環境にいた人の差、ということになる。
しかし、彼らの戦争観のもとになっていた時局報道が捏造、歪曲、事実隠匿と情報操作された不正確なものばかりだったとしたら、どういうことになるのだろう?

 これを聞いた荷風は、「軍部の横暴なる今更憤慨するも愚の至りなればそのまま捨置くより外に道なし。われらは唯その復讐として日本の国家に対して冷淡無関心なる態度を取ることなり」と、五月五日の日記に記している。


後世のわれわれが歴史年表に確定事項として見ることができる事実は、必ずしも当時事実として認識されていたわけではない。
たとえば海軍(山本五十六)が強行した昭和17年6月のミッドウェー海戦が甚大な損害を被り、以後の戦局を大きく不利に傾けた結果だったことは隠されたままだった。
敗色濃厚。なのに遠くニューギニアビルマで何が起こっているかなど知らないで、国民はただただ勝利を信じるという壮大な虚構を生きて、死んでいく。
戦争に負ける、負けたらどうなるか、そんなことは誰も考えていなかった。負けることもあることを知らないで戦争を始めて、退くに退けない、止めるに止められない泥沼にのめりこんでいった。
本書は時系列に沿って著名人の書き残した日記を読み比べるという形式をとっているが、どこか他人事のようにしらけた彼らの言葉よりも、野坂氏自身の回想の、一節ごとに読点が打たれるあの文体の息を切らせつつ語ろうとするかのような口調がより生々しい迫力がある。



戦災証明書を持った罹災者の方が確実に、まともな食糧にありつくことができた。配給は遅配になり、やがて欠配となった。妹を連れた野坂少年は朝から外食券を持って食堂の開店を待っていたのに、あとから押し寄せてきた大人たちに押し出されて食いっぱぐれる。
小川に乱舞するホタルの光が米軍機の標的になるから一匹残らず殺してしまえと回覧板が回ってくる。金魚を飼うと爆弾除けになる。茗荷を食べるのも安全だ。そんな迷信が空襲下の市民のあいだには広まっていた。防空壕に生き埋めになってすでに息のなかった女は掘り出されると、やおら駆けだして、またすぐに死んだ。
本当に語られるべき戦争の姿は、御前会議の内容とか軍の極秘資料とかではないのではないか。歴史的事実の検証に意義がないというのではないが、そればかりだと、ただの「公式記録」の追認か更新にすぎないのではないか。「悲惨な戦争」というときの、実は曖昧で漠然としたイメージを厚塗りしているだけではないのか。
戦時がいかに不平等に鈍感であり、弱者がさらに弱い者を押しのけるのを当たり前にしたか。そういう人心の荒廃を招いたか。
野坂少年は次第に妹を疎ましく思うようになるのである。『火垂るの墓』に描かれた ―清太とせっちゃんの― 兄妹愛は現実にはなかった。それどころではなかったのだろう。戦災孤児など珍しくない。餓死、衰弱死する幼児も絶えない。そういうことを当たり前だと思わせる「戦争」のイメージにならされてはいけない。

ぼくは日本人のお人好し、恵まれた自然こそ大事だと思うが、お人好しの反面、経済大国に成り上がって、戦前より夜郎自大に陥っている。視野狭窄またはなはだしい。戦争はまだ終わっていない、少なくとも戦争を見直すことが必要、戦争を伝えることがもはや老年となった、体験者の義務。


数年前、たまたま野坂さんの奥さんが夫の介護について語るNHK教育の福祉番組を見たことがある。
野坂昭如氏は2003年に脳梗塞で倒れた。もう何年も彼の活動を耳にしていないが、現在もリハビリ中なのだろうか。
彼は戦中派の人に会うと「日本がどの時点で負けると思ったか」と必ず聞くという。また、古書店を巡り歩き、市井の人々の戦中記を買い集めてもいる。
自分などはこの人を変な文化人ぐらいにしか思っていなくて、戦争体験を語り継ぐことにこれほどの使命感を持って取り組んでいるとは知らなかった。
ポツダム宣言受諾から終戦詔書まで、なぜもっと早くできなかったのか。もう十日早ければ、広島長崎の原爆被害は避けられたかもしれない。そこには、玉音放送の日から一週間を待たずに亡くなった彼の妹も、もしかしたら助かっていたかもしれないという思いだって含まれているだろう。軍人政治家がこだわった「国体護持」の文言の扱いに比して、衰弱した妹をどうすることもできない兄の思いの方が小さいだなんてことは、断じてない。当たり前の感情が生き残ってしまった者の悔恨となって、何十年が過ぎても消えないのである。骨と皮ばかりに変わりはてた小さな遺体を彼は、たったひとりで焼いたのだった。
野坂氏は今年八十歳。不自由な肉体で、いまどんなことを考えているのだろうか。