今村夏子 / こちらあみ子


この表紙カバー、どこかで見たことあるなーと思っていたら思い出した。昨年だったか星野智幸さんのブログで紹介されていた。彼の『無限道』表紙でも使われた 土屋仁応氏 のオブジェ「麒麟」。小川洋子さんの近刊『人質の朗読会』にも彼の作品が使われている。



【 今村夏子 / こちらあみ子 (206P) / 筑摩書房・2011年 1月 (110817−0818) 】



・内容
 風変わりな少女、あみ子の目に映る世界を鮮やかに描き、小川洋子三浦しをん荒川洋治の絶賛を受けた第二十六回太宰治賞受賞作。書き下ろし作品「ピクニック」を収録。


          


子供の頃、自分もトランシーバーが欲しかったのを覚えている。欲しかったのを覚えているというのは、それで満足に遊んだ記憶はさっぱりないのに、欲しくてたまらなかった熱烈な感覚だけは残っているからだ。
お年玉で買ったのか、祖父にねだったのだったか、やっと手に入れたトランシーバー。でも狭い家の中で家族相手に使っても面白くないし、友だちとお宮や公園に持っていってもあまり楽しくなかった。物陰に隠れて声をひそめて通話ボタンを押すと、子機がピーとかガーという音をたてるから相手の居場所はすぐにわかってしまった。玩具だから数十メートルの範囲しか使えないし、しきりに通話ボタンを押したからだろうか、じきに接触不良をおこして途切れ途切れの声しか聞こえなくなった。
子供心にもこれは案外使えないと思っただろうか。電池が切れたらそのまま放りっぱなしでおもちゃ箱のガラクタになり下がるのにそれほど時間はかからなかった。
そもそも子供にトランシーバーで話すことなんてないのだ。誰にも邪魔されない秘密の電波回線。たとえ‘ごっこ’だったとしても、まずそういうスリリングな状況設定と秘密を共有する同志がいなければ、糸電話でいい。
あみ子のトランシーバーも沈黙したままだ。もう一台がどこにあるのか、誰が持っているのかすらわからなくなってしまった。それでもあみ子は発信し続ける。「応答せよ、応答せよ。こちらあみ子、応答せよ」



どうして誰も答えてやらないのだろう。どうして彼女の世界にほんの少しでいいからつきあってやらないのだろう。スパイのふりとか救世主のふりなんてしなくていい。ただ通話ボタンを押して、何か言ってやるだけでいいのに。
自分のトランシーバーが一回でも鳴ったら、どれだけ彼女は驚喜するだろう。どこでもかまわない、自分の回路が外の世界とつながっているのを知っただけで、彼女は欣喜雀躍するだろう。足をこんがらがせて、得意満面でスキップするはずだ。
この不思議な小説を最後まで一気に読ませるのは、あみ子が大喜びして笑うところを見たいと読者に願わせるからである。一方で、神様の気まぐれの産物であり小怪物で暴君でもあるこの天真爛漫な子供が、いずれ傷つくのも予感させながら。



たしかにこの主人公は脳に何らかの障がいがあるように見える。常識的に見て、誰でもそういう判断をするだろう。その判断にもとづいて、われわれの社会は「区別」したうえで「保護」の手をさしのべようとする。
しかし、作品中には彼女が特別支援学級の生徒だとはどこにも書いてないし、何かしらの通院治療を受けている形跡もない。家族でさえ特別な配慮をしているようには見えない。家庭でも教室でも、彼女は区別されていないし、特別扱いされていないのだ。
(その設定の入念さは、相手を特定してしまう携帯電話ではなくトランシーバーを用意したところにも表れている)
彼女の異状(に見える言動)はあくまで個性として描かれている。とすると、周囲の人間の彼女に対する態度はどうだったか。健常者と障がい者の線引きがなければ(そういうシステムがなければ)、われわれはやはり残酷なままなのだろうかと考えると、胸に冷たいものが下りてくる。あみ子の精神状態や体調への冷淡は、われわれの他人への無関心とまったく重なる。では、これはフィクションだから残酷なのかといえば、もっと残酷な現実がいくつも思い当たって、さらに心は冷えるのである。



調和しようとしない手に負えない存在にぶつかったときに自分が取りそうな態度を思い起こしてみれば、この小説の中にはきっと自分によく似た姿がある。無関心の知らんぷりを決めこむなら、本の中からそういう自分が見返してくる。
ちょうど本の半分ぐらいのところ、自分がどんなふうに見えていたかをあみ子が知りたがる場面。これは泣くな、このまま行ったらボロボロだな… と心の準備を始めたところでぷつり小説は終わってしまった。長篇と思って読んでいたので唐突な幕切れにしばし呆然とさせられて、少し慌てて終わりを確かめた。
でも強烈なインパクトがあった。心にくすがったとげとげは会社に行っても抜けてくれなくて、「応答せよ」のリフレインが止まらなかった。あれは、あみ子の叫びだったのだろうか。無差別にまき散らすSOSではなかったか。
あみ子でさえ、だんだん気づいてしまうようなのである。けがれなき魂が初めて罪を意識するとき、おそらくそれまで知らなかった他者の悪意にも感づいてしまう。人に好かれたい、優しくされたいと願う当たり前の感情を知ったときに、同時に彼女が自覚するはずのもの、削ぎ落とさねばならないもの。自分の存在を他人のものさしで測るようになることは、きっと無垢なまま生きるのを許さないだろう。けして傷つくことなどなさそうだったあみ子が自責し、傷つき、傷つけることを知る。それが学習であり成長するということなのだろうか。
こういう形でわれわれは偉そうにも「あみ子たち」が‘われわれの社会’に参加する資格審査をしているのかもしれない。そこに匿っている一方的な暴力性をかぎつけてしまうと、うすら寒さもおぼえる。

この痛み。フェリーニの『道』、ジュリエッタ・マシーナ演じるジェルソミーナを思い出したのだった。