深水黎一郎 / 人間の尊厳と八〇〇メートル


【 深水黎一郎 / 人間の尊厳と八〇〇メートル (206P) / 東京創元社・2011年 9月 (111030−1102) 】



・内容
 このこぢんまりとした酒場に入ったのは、偶々(たまたま)のことだ。そこで初対面の男に話しかけられたのも、偶然のなせるわざ。そして、異様な “賭け”を持ちかけられたのも──あまりにも意外な結末が待ち受ける、一夜の密室劇を描いた表題作(第64回日本推理作家協会賞受賞)。極北の国々を旅する日本人青年が遭遇した二つの美しい謎「北欧二題」ほか、本格の気鋭が腕を揮ったバラエティ豊かな短編ミステリの饗宴。


          


奇抜なタイトルと推理作家協会賞受賞作というのに惹かれて興味津々で(ちょっと怖々と)本を開けた冒頭の〈人間の尊厳と八〇〇メートル〉。ぶらり寄ったバーで隣にいた男が話しかけてくる。初対面の男のお喋りを煩わしく感じていたのに、二人の会話は次第に妙な熱を帯びてくる。それだけの話なのでちょっと肩すかしを喰らった気持ちにもなったのだが、でも不思議と悪い気はしない。酒場の暗がりで、素性の知れぬ者同士がグラス片手に少々偏屈な話題で盛り上がっている。途中からはニヤニヤしながら一幕物の芝居みたいな会話の妙を楽しんでいた。
拍子抜けしたのは、自分が抱いていた陰鬱な先入観のせいだったか。「ふーん、そう来たか」と感嘆するのも「あ、そう」と軽く受け流すのもどちらでも可能な、あまりミステリ色は濃くない五篇を集めた短篇集。本を読むのになるべく頭を使いたくないという理由から推理小説に少々アレルギーがある自分にも面白く読めたのだった。

 「えーっと、つまり要約しますと、不確定なこの世の中において潜在性を現実化すれば、それは人間の尊厳の証明になるということですよね?何故ならそれができるのは人間だから、と」
 「そうそう。あんた、やっぱりものわかりが良いねえ」


かといって、読み心地がけして軽いわけではない。量子力学の不確定性理論が持ち出され、ナチスと連合国軍のナルビク海戦が話題に上げられたりする。音楽や絵画、パリの街並みに関する蘊蓄も散りばめられている。欧州最北端の地をめざして放浪するバックパッカーが主人公の〈北欧二題〉では、スウェーデンノルウェーが舞台なのに、地名も含めてわざわざカタカナを一文字も使わない凝った文で構成されている。博識で饒舌、だけどそれが嫌みっぽくならないスマートな語り口である。
ミステリ風の装飾を取っ払ってしまえば、この本に収められているのは、酒場で他人としかできない屁理屈の応酬であり、気ままな道中記の1ページであり、自尊心の高そうな女の愚痴だったり、新婚旅行ののろけ話でしかない。



完全犯罪を目論む女が滔々と持論を展開する〈完全犯罪と善人の牙〉。途中で、しかしどうやらこの女も失敗したらしいのが明らかになる。ミスコンで優勝したこともあるツンデレ女がどういうわけか「行き遅れて」、「気まぐれに」登録した結婚相談所で出会った男と結婚する。女が説いていた論理と実行力の矛盾がそのままこの女の人生にも当てはまりそうで、完璧な計画はあっさり打ち破られたのだった。自信満々だった犯罪論はうらぶれた女のもの悲しい独白に変わってしまう。
〈蜜月旅行〉も新婚カップルの立場の逆転をわかりやすく描いてあった。
論理を破綻させる、あるいは超越する人間の意外性には「人間の尊厳」らしきものが奥底に潜んでいる。そのものズバリの表題作以外にも各作品に通底するテーマのように感じる。小さなひびが大きな亀裂に変わる逆転劇。いかにもなミステリ的な大仰なトリックではなく、誰の人生においてもありそうな転換点をシニカルに、しかし決して冷たくはない視線でとらえた作品が並んでいた。

 つまり彼等は、警察の目と保険会社の厳しい審査をくぐり抜けて、最低一度はまんまと保険金をせしめているのである!彼等はそれに味を占めて、愚かにも犯行を繰り返したから捕まってしまい、芋づる式に過去の悪行まで露見してしまったわけであるが、もしも最初の一回だけできっぱりと止めていたら、恐らく完全犯罪だったはずなのである!


まず犯罪ありき、死体ありきなのではなく、ここに描かれているのは人間の不可解さである。ささやかで、したたか。論理やマニュアル、規範を覆してしまう知恵と本能。人生の機微が尊厳めく、そんな瞬間を切りとっている。
この作品集の各話の骨格にあるのは、たぶん「ちょっといい話」だ。素材へのスパイスの加え方一つで味を変えるという点で作家は料理人なのかもしれない。この作者の場合、彼のスパイスはユーモアである。自分の思うとおりにはいかない、一筋縄ではいかない人生に、一つまみふりかけてみるユーモア。それがよく効いていて、最上ではないかもしれないが、悪くはないと思わされた。つまり、良かったのである。
大絶賛はしないけれど秘かに絶賛したい、そんな一冊だった。