ゲット・ラウド


有休を取って午後から静岡へ。15時からロック映画『ゲット・ラウド』を観て、それから天皇杯エスパルスの応援に行くというめちゃくちゃな一日。


静岡シネギャラリーでは以前『わたしを離さないで』のときにもカズオ・イシグロの本を持っていくと料金割引という好企画があったが、今回もツェッペリンU2のCD持参で割引してくれるというナイスなキャンペーン実施中。
じゃあ、いっぱい持ってけばいっぱい割引してくれるのかなぁ?とか、レア盤なら半額にしてくれたり?とか、んなわきゃないのだが、出かける前に持っていくCDを選ぶのも楽しい。
案の定、CD選びがCD探しになって、“狂熱のライブ”(紙ジャケ)どこだっけ、“BBCライブ”もない!とCDの山を引っかき回す事態に。途中で偶然発掘したレインボーを無性に聴きたくなって‘キル・ザ・キング’に大興奮したりして…
で、やっと“狂熱のライブ”は見つけたのだが、夜はサッカー見に行くんだから大事なのはやめとこうと考えなおす。結局、なぜか三枚も持っていて、その中で一番ケースが傷んでいる“ヨシュア・トゥリー”を持っていったのだった。



【 ゲット・ラウド ジ・エッジ、ジミー・ペイジ、ジャック・ホワイト×ライフ×ギター 】

It Might Get Loud



・内容
 エレキギターの三世代におけるスーパースター、U2のジ・エッジ、レッド・ツェッペリンジミー・ペイジ、ザ・ホワイト・ストライプスのジャック・ホワイトが、ロンドン、ダブリン、ナッシュビルといったそれぞれのルーツを訪れ、自らのすべてを語る。一方、三人が初めて集い、ギターについて熱く語り合い、曲を教え合う奇跡のジャム・セッションの準備が進められていた……。
監督は、『不都合な真実』で第79回アカデミー賞ドキュメンタリー長編賞に輝いたデイヴィス・グッゲンハイム


          


ロック・ギタリストが三人も集まればジャムが始まるのはまったく不自然なことではない。だいたい喋るのが上手くないから連中はギターを手にしているわけだし。「ギターで会話する」とか都合良いことを言うけど、ジャム・セッションとかいってもジャズとは違ってブルース進行さえわかっていれば、誰だってできる。
でも、この三人。ちょっと異色な組み合わせなのも確かで。
たとえばヤードバーズが生んだ三大ギタリスト(クラプトン、ジェフ・ベックとペイジ)やスーパーギタリストと呼ばれるような人たちが集まると、ライバル心が働くのか、セッションというよりはバトルになってしまう。技の博覧会みたいなものはこの映画が目指すところではないのだった。


それぞれの略歴が語られデビューまでの経緯が語られる。時代がちがえば音楽業界の流行りもサウンドの志向もちがう。何よりもギターへのアプローチがちがう。
ペイジーとエッジに比べるとどうしても見劣りするジャック・ホワイトという人が、このドキュメンタリーのキーマンなのだった。
三人の中で最も若い彼が語っているように、彼の世代はもはや「ギターをやってるなんてダサイ」。「人気があるのはDJやラッパー」で、パンク・ミュージックは「ぼくらみたいないじめられっ子が復讐するチャンス」だったのだという。ペイジとエッジが発明家と革新者であったのに対し、彼はパンクからブルーズにダウン・ロウしている屈折した音楽青年なのだ。
だからホワイトは、ぎりぎり最後のロック世代の代表としての役割を担い、また、他の二人 ―レジェンドの二人― を崇拝、憧憬し、彼らのようにはなれなかった大多数の人々、つまりこの映画の鑑賞者に近い立場にもいるのだった。


これがペイジとエッジだけだったらどうだったろう。レコードを聴き比べるまでもなく、彼ら二人を結びつける接点はありそうもない。二人ともスタジオワークに凝るプロデューサー的資質を兼ね備えたプレーヤーではあるけど、ルーツはまったくちがうし、王道のようで実はそれぞれ孤高の求道者でもあり(それゆえに偉大なのだが)、どんなミュージシャンとも幅広く交流を図ってきた人たちではない。
片や‘王者’ツェッペリン。片やアイルランドの叙情と情熱と不屈を体現する‘音の建築家’。この二人のジャイアントの間で緩衝し中和する人物。そうした意図があったかどうかはわからないけれど、結果的に‘三人目’としてのジャック・ホワイトのキャスティングは良かったと思う。


華々しいロックンロール・ライフスタイルをテーマにして「ロック最高!」と叫ぶだけの企画だったら、この三人の邂逅はなかっただろう。ギターという道具を媒介にしてギタリストという切り口が設定されていたからこそ、対談が熱を帯び、セッションが始まる流れを自然なものに見せる。
ペイジーレスポールを手に、やおら‘胸いっぱいに愛を’のリフを弾き始める。エッジが思わず腰を浮かせてペイジーの正面に移動する。それまでちょっと力んでいた感じのホワイトがはにかんだような嬉しそうな童顔に戻って御大の指さばきをじっと見つめる。
たぶん世界中で最も有名なイントロの一つで、ギター弾きなら誰もが一度は鳴らしたことのある、あのリフ。やってみれば実はそう難しくはなくて、一瞬にして自分がジミー・ペイジになったような気分に浸れるあのサウンド。単純きわまりない、素朴それゆえに威力抜群のあのリフは、国境も世代も時代も軽々と越える。四十年も前から世界中の少年たちを感電させ道を誤らせてきた感性が今なお不変のきらめきを放つ、その瞬間をカメラは映し出す。
そういうものを自分の知っている言葉で表現するなら、これしかない。すなわち「魔法」である。


          


自分はいわゆるMTV世代なのでレッド・ツェッペリンの映像はほとんど見たことがない。インタビュー記事はいくつも読んだけれど、ジミー・ペイジがカメラの前でこんなに長く喋っているのを見たのは今回が初めてだった。
昔、熱心に読んだロック雑誌によると、ジミー・ペイジという人は気むずかしくてケチなヤツのはずだった。その彼の表情が柔和で良い。貫禄があって、風格もあって、70歳近いのに少年のようでもあって……と書いていて思い出して、今度は本の山を引っかき回すはめになった。


あった! ちょうど二年前のギター・マガジン2009年12月号。ロック誌なんてもう何年も買ってなかったのに、本屋でこの表紙、ペイジーのチャーミングな笑顔につられて衝動買いしたのだった。
そして、この号で特集しているのが、当時アメリカで公開されたばかりのこの映画“It Might Get Loud”なのだった!


          



この映画には魔法がもう一つある。エッジがデモテープを流してこの曲の制作秘話を語る場面。
1986年のU2ヨシュア・トゥリー”のオープニングを飾るこの曲は、盤がすり切れるほどよく聴いた(CDだからすり切れたりしないのだが)。ちょうどその頃に出た村上龍『69(シクスティーナイン)』に、「ブライアン・ジョーンズチェンバロのごたる感じで生きていきたか」というセリフがあって、自分はこの曲を聴くたびに「ジ・エッジのギターのごたる生きるたい」と、なぜか九州弁でわけのわからん決意をしていた。もっとも、ブルースマン気取りの自分にはこんな疾走感あふれるカッティングは全然できなかったのだけれど。


     

エッジが雄々しくかき鳴らすギターによって歌われたこの曲は、「われらの凱歌」でもある。
(映画の中でもこの映像の一部が使われていた。U2の地元、アイルランドのスレイン城でのライブ。その数日前に父を亡くして傷心のボノをバンドとオーディエンスが盛りたてて感動的な演奏がくり広げられた)



もっとペイジとエッジのパートを多くしてほしかった。そうしたら商業映画向きではなくなってしまうのかもしれないけど。でも一時間四十分じゃもの足りない。もっと知りたい、と欲求不満を感じさせるところが憎い、ということで良しとしようか。
あと十年後にはこんな企画は有効ではなくなっていそうな気がする。今でさえロックなんて絶滅危惧種なのだ。でも、魔法の効力は、永遠……?
「少年を最初に男にし、男を永遠に少年でいさせる」とはラグビーの定義だが、もしかしたらロック・ギターにもそっくりあてはまるのかもしれない。六本の弦と五本の指。ピアノのようなメソッドはないが無限の可能性を秘めるギターは魔法の杖なのだ。玉手箱みたいな、でもノスタルジックなだけではない、実に素敵な映画だった!