中村和彦 / アイ・コンタクト


少し前にNHK名古屋制作の三十分番組「明日へ響け“心の音”〜名古屋ろう学校・音楽部の挑戦〜」をたまたま見た。ニュースと天気予報のあと食器を片づけていたら、テレビからバンド演奏が聞こえてきた。あ、これは‘上を向いて歩こう’だな、RCヴァージョンの。居間に戻ってみると、高校生バンドの練習風景が映っていた。
なんだかドッタンバッタンした拙い演奏だと思ったら、ろう学校の音楽部の生徒たちだった。音が聞こえない彼らが楽器を演奏していたのである。


合うわけがない。聞こえないのだから。それどころか、自分が弾いている音だってわからないのではないか。後から考えてみれば、あれで音楽を楽しんでいると言えるのだろうかとの疑問もよぎったのだが、そういうことではないのだ。音楽の感じ方、楽しみ方は自分が知っている一通りだけではないのだ。
「わたしたちは耳が聞こえないけれど、みんなで音をぴったり合わせられるんです」
そう語る一年生の新入部員、キーボードを担当することになった女子生徒にスポットを当てながら、文化祭でファンキー・モンキー・ベイビーズの『明日へ』を演奏するまでをカメラが追う。


アンプに手を当てて振動でリズムを覚える。ドラマーのスティックの動きを見て自分のパートのタイミングを計る。それでも音の出だしがわからない。合わないし、そろわない。一度ミスすればもうお手上げで、演奏は中断してしまう。音符一つ、それこそ一拍の間を身体に覚えこませる作業の連続。そういう練習を繰り返して、いよいよ文化祭当日のステージに彼らは立つ。


それに比べればサッカーをやるなんて簡単なことだろうと思うと、そんなわけはないのだ、これが。



昨年から見たいと思っているこの映画、まだ見る機会がない……


     


その『アイ・コンタクト』が本になった。岩波書店GJ!
著者はこの映画の監督でもありJFA公認カメラマンの中村和彦さんGJ!



【 中村和彦 / アイ・コンタクト もう一つのなでしこジャパン (224P) / 岩波書店・2011年10月 (111115−1118) 】



・内容
 静寂のピッチで目と目で意思を伝えあう、ろう女子によるサッカー。ろう者によるろう者のオリンピック「デフリンピック」で初の日本代表として闘ったメンバーの軌跡を追いながら、健聴者ともプレーをしたり、ろうの高齢者介護施設で働いたりという日常を生きいきと描く。アイ・コンタクトからコミュニケーションの本質が浮かび上がり、サッカーの新たな醍醐味にも出会える本。


          


2009年のデフリンピック台北大会出場に向けて、初のろう者サッカー・女子日本代表が立ち上げられた。そもそも競技者数が絶対的に少ないため、広くスポーツ経験者や運動好きな人にまで声が掛けられた。厳しい選抜過程があったのではなく、希望者を募って集められた中にはサッカー未経験者も多かったのだが、その人たちがいきなり「代表」になるという、壮大といえば壮大だが、けっこう無茶なプロジェクトなのだった。
(ここのところが『プライド in ブルー』の知的障がい者サッカー・日本代表とはちがって、意外というか予想外だった)

 『アイ・コンタクト』の映画版では、ホイッスルの瞬間から演出効果としてすべての音を消し去った。補聴器装用が禁止されているピッチ上では、情報としての音はほぼない。彼女たちにとって、無音ではないが、ピッチ上に音の情報はないといってもかまわないと思う。そういった状況の中でプレーする彼女たちと少しでも一体感を感じてほしいと思い、映画からすべての音をなくした。聴覚障がい者の世界を短絡的に「音のない世界」と表現することは明らかに間違っているが、そこではあえて無音を作りだした。


よちよち歩きでとりあえずのスタートを切ったチームが合宿と大会を通じて成長していく。それだけならよくあるスポーツ物語の一つにすぎない。障がい者が高いハードルに挑む、そこに驚きや感動を見いだそうとするなら、他にいくつも代わりはある。
しかし、著者の中村和彦さんはサッカー映像のプロであり、日本代表の幾多の激闘を現場で目の当たりにしてきた人だ。サッカーを愛するがゆえに、人一倍サッカーを見る目が厳しい人でもある。
耳が聞こえないというのがどういう状態なのか。音という情報のないサッカーはどういうものか。彼自身も知らなかったろう者の世界を丁寧に伝えながらも、彼はまず、サッカーという切り口からその世界を見る。彼にはこの「代表」のサッカーへの取り組みに不満を感じずにいられなかった(何よりカメラマンとして‘絵的に’サッカーの絵が撮れないという苛立ちが大きかっただろう)。



撮影取材を始めた中村氏は、まもなく手話を習い始める。それまでの人生で会話に不自由したことなどなかったのに、ろう者同士が手話で会話している集団の中では一人孤独を感じてしまう。選手にインタビューをしても、実際の言葉のやりとりは手話通訳者に頼らざるをえない。直接彼女たちの言葉(気持ち)に触れていないのではないかという自問。サッカーにたずさわる者同士でありながら、厳然と横たわる深い溝。それを越えられないもどかしさ。
サッカーに関してはうるさい彼も、素の個人に戻ってみれば満足に彼女たちと話すこともできない。撮影する側とされる側のあいだには信頼関係が不可欠だ。そのために絶対必要な言語、それが手話だった。

 「やる気あるの?悔しくないのか!」
 選手たちが真一文字に口を結んだまま、監督の手話を見る。選手たちは下を向きたくても、下を向くわけにはいかない。顔を上げないと、監督の言葉を読み取れないからだ。
 御園裕未の目から大粒の涙がこぼれ出た。しかし決して顔を下げることはない。前方を見すえ監督を見すえて、流れ出る涙をぬぐおうともしない。


まず見る。顔を上げて、しっかり見なければ始まらない。「アイ・コンタクト」は、耳が聞こえない、聞こえにくい選手同士が互いの意思疎通のために欠かせない動作だ。そうしてボールをつなぐことは、気持ちをつなぐことでもある。より気持ちが通じ合えた方が勝つ。聞こえる聞こえないに関係なく、それはサッカーの定理の一つであるのを思い出す。
音に頼れない世界に生きる彼女たちの生活とサッカーが融合していく。ろうの一般人がサッカー日本代表選手に変わっていく。ここにこそ本書の最大の魅力があるのだが、実は、サッカー人の著者がこの世界に関わりのめりこんでいくサイドストーリーがまた良いのだ。端的に言ってしまえば、「もう一つの」世界だったはずのものが身近なものに変わっていき、もう一つではなくなる瞬間を彼自身が見つけるのだ。(←すごい深読み。そんなことは一行も書いてない)
ここには外部の取材者としてどう接したらいいか悩むところから、最後にはチームの一員としてメンバーと一緒に戦うまでに変わった著者がいる。ろう者の選手間のコミュニケーションを語りながら、著者自身と彼女たちとの交感が書かれている。中村氏の目を通じて読者も声のない、しかしメッセージが飛び交うピッチに立たされる。そうした一連の好ましい連係が書き手の意図していないところにまったく自然に表れてくる。優れたノンフィクションにはそういう部分があるものだ。
最後に藤島大さんのマネをして書いてみる。― 地球はサッカーの惑星でもある。そして、この星を回しているのはこういう「熱」である。中村和彦氏の好パスは通ったのだ。(………)



ろうの方たちは昔から手話で話すものだとばかり思っていたのだが、手話がろう教育の現場で使われるようになったのは近年のことだというのには驚いた。以前は徹底して口話教育(読唇と発声練習)が行われていて、手話はその妨げになると考えられていたのだという。


宮部みゆきさんの『龍は眠る』にも保育士のろう女性が登場する。筆談、受話器を叩いて電話で応答する、手話。「思念を飛ばして」コミュニケーションできる能力者を描いた作品にリアルなろう者の生活を描く。あの作品の凄さをあらためて思い知った。