ヘミングウェイ / 武器よさらば


ヘミングウェイ没後50年というので何か再読しようと思っていた。
自分らの世代にとってヘミングウェイといえば……

          

この表紙、大久保康雄・訳の新潮文庫だが、新しいのを、ということで。嬉しいことに、金原瑞人さんの訳で古典新訳文庫から新版が出ていたのだった!


読み比べを、とも思ったが、そんな気力体力はないので、ときどき新潮版と見比べてみただけ。
新潮文庫は一巻で450P、古典新訳文庫は上下巻で580P。新訳のあとで新潮版を見ると、文字は蟻の行列みたいで目まいがしそうだ。密度も三倍はありそう。近くも遠くも見えづらいお年頃なので古典新訳文庫の紙面はありがたいのだが、それにしても昔はよくもこんな小さな字で読んでいたもんだな、と変な感心をしたのであった。



【 アーネスト・ヘミングウェイ / 武器よさらば (上273P、下308P) / 光文社古典新訳文庫・2007年 (111121−1130) 】

A FAREWELL TO ARMS by Ernest Hemingway 1929
訳:金原瑞人



・内容
 第一次世界大戦の北イタリア戦線。負傷兵運搬の任務に志願したアメリカの青年フレデリック・ヘンリーは、看護婦のキャサリン・バークリと出会う。初めは遊びのつもりだったフレデリック。しかし負傷して送られた病院で彼女と再会、二人は次第に深く愛し合っていくのだった…。

          


読んだのは読んだけれど、内容はさっぱり忘れたという本は山ほどある。この『武器よさらば』もしかり。でも二十数年ぶりに再読してみて、これに限っては「なるほどこれは忘れるわ」と納得できた(笑)
第一次大戦のイタリア・オーストリア国境の戦場が舞台なのに、どうも緊張感がない。傷病兵運搬の任務にある主人公の中尉は毎日酒場で神父をからかいながら酒を飲み、休暇もたっぷりもらえて、病院に美人看護師が来たと聞けばすぐに冷やかしに出かけて行く。ヘミングウェイだから酒席の場面が多いのは承知してはいるものの、今ひとつ状況がつかめず、なんだかバカンス中のようにも見えてしまう。
読書エンジンになかなか火が点かず惰性で文字を追うだけになってしまったのは、ひとえにこの非情緒的な乾いた文体のせいだった。



情感を排して心理描写をしない。人物描写は最小限にとどめられる。
たとえばこの主人公のアメリカ人がどうしてイタリア軍で働いているのかは明確にされていないし、彼の故郷や家族のことにはまったく触れられない。考えてみれば彼の人となりどころか名前すらほとんど出てこない(フルネームで書かれていた箇所があっただろうか?) 主人公の名前さえこの作家はこだわっていないらしいのである。
その主人公、ヘンリーがキャサリンのどこに惚れたのかわからない。キャサリンがヘンリーを好きになった理由もわからない。だが二人は出会い、恋に落ち、人生を共にする決意をするのである。
わざわざ志願してまでヨーロッパの戦線に従軍、負傷、厭戦気分に襲われて軍を脱走、女連れで隣国へ逃亡を図る。ストーリー上の重要なターニングポイントでの彼の動機もいっさい伏せられたままなのだった。



しかし言葉足らずかといえばそうではなく、文章そのものは饒舌多弁で、他愛のない日常会話の羅列と大筋に影響のなさそうな情景描写にはしっかり文字が費やされている。簡潔と評されることが多いヘミングウェイの文章だが、実は無駄と思われる場面や会話は多い。
逆に言えば、この小説はディテールの積み重ねによってのみ書かれている。ヘンリーが事あるごとに口にする様々な酒の種類や夜の闇の中で女の髪がつややかであったことなどが、暗喩でも何でもなく、ただありのままに記述されていく。ここには徹底して「今」しか書かれていないのである。
感情を書かないということは、記憶を書かないということでもあるだろう。後悔や反省や未練もなく、過去からの教訓めいたものを引きずらず、そして現在から何かを導きだそうとするのでも意義づけしようとするのでもない。
戦況に無関係と思われたヘンリーが逃亡者に発砲する場面がある。兵士でもないのに彼はためらうことなく実にあっさりと弾き金を引くのだった。その後、今度は彼が追われる身となるのだが、人はこれほどまでにドライでいられるものだろうかと考えると、やはりこれはヘミングウェイが意図してこのように書いたと考えるしかなさそうだ。(彼がこれを書いたのは二十代後半である!)



思想も信念もない無神論者。何かの行動をとるのに、神の意思も国家への忠誠心も軍の規律も原理としない。惰性と衝動。ヘミングウェイの世代は上の世代から揶揄をこめて「ロスト・ジェネレーション」と呼ばれたが、では宗教や主義を重んじ、それらに縛られた現世界はどうなっているか。目の前の戦争がどうなっているか。
その空しさを説明するのは難しいが、一つ感傷を許してしまえば、そこにまたもや信条や教条主義が介入する余地を生むのは想像に難くない。ならば生身の身体感覚だけを写す。人間を感情の動物として描かない。これは戦争文学でもロマンス小説でもない。物語のための小説にしない。本作はそんな冷徹な鋼鉄の意志によって書かれたのではないか。

……ほとんどそこまで信じかけていたのに、最後の数章でそんな薄っぺらな読みは易々とひっくり返されたのだった。このでれでれアツアツでいちゃいちゃベタベタなバカップルぶりは何だ?これまでのハードボイルド文体は何だったのだ?という落とし方には唖然とし、もうギャフンとでも言うしかなかった。こういうことする人だったんだ、パパ・ヘミングウェイは。読んでるこっちが恥ずかしくなるのだから、とても素面でこんなの書けやしないだろう。あ、酔ってたのか?(笑) というか、文豪ご本人は若い頃のこの作品を嫌いだったのではなかろうか? まあ、喜んでいいやら悲しいやら、よくわからないのだが、たぶんストーリーなんてどうでもよかったのだろう。
始めは退屈だったけど、文体に慣れて後になってくると面白くなった。この感触を忘れないうちに他のヘミングウェイ作品も読み直そう。


金原瑞人さんの訳はやっぱり読みやすい。ヘミングウェイ×金原瑞人ってありえなさそうだったのに、意外に良かったのである。どうせなら他の作品もやってくれるといいのに。