宮崎駿 / 本へのとびら


宮崎駿 / 本へのとびら ― 岩波少年文庫を語る (192P) / 岩波新書・2011年10月 (111201−1203) 】



・内容
 「生まれてきてよかったんだ、と子どもにエールを送るのが児童文学」 自らの読書体験、挿絵の素晴らしさ、アニメと本との関わり、そして震災後の世界について─。アニメーション映画界のトップランナーとしてつねに発言を注目される著者が、お薦め岩波少年文庫50冊の紹介とともに、本への、子どもへの熱い思いを語る一冊。


          


ジブリアニメというものを一本も見たことがないし、特に宮崎駿さんに興味を持っているわけではない。「岩波少年文庫」にも縁がなかった。誰もが読んでいるものなのだろうか? もしかしたら小学校の図書室にあったかもしれないけれど、はっきりした記憶はない。
ただこの本を開いて目に飛びこんでくる書影の数々が楽しくて、「本の本」としても「本のカタログ」としても良いなと思って買ったのだった。
その岩波少年文庫(1950年創刊、現在までに約400作品が刊行されているらしい)のラインナップをざっと眺めると、アンデルセンやグリムの童話、ピーターパンにガリバー、宝島、シャーロック・ホームズ、星の王子様、タイムマシンや海底二万里などの翻訳物から日本の山椒魚羅生門杜子春坊っちゃん走れメロスなんかもある。あーなるほど、という有名タイトルが並ぶ。たしかにこういう名作本たちが教室や図書室にあって、まったくランダムにあれを読みこれを読みしたものだ。



宮崎さんは子供のころ、貸本屋でこれらの本と出会った。「本なんか読んでいるとろくな大人にならない」という風潮がまだあった時代だという。岩波少年文庫を集中して読んだのは長じてアニメーターになってからのことで、制作会社の資料としてそろえられていたのをまとめ読みしたのだという。
(言うまでもなく「ハイジ」「フランダースの犬」、「ゲド戦記」、「床下の小人たち」(アリエッティ原作)はこの文庫に収められている)
大人は情操教育に良いとか教養のための読書を子供に促すのだが、子供はそんなことを考えて本を読むのではない。その本が自分の役に立つか立たないか、最後まで興味を失うことなく読めそうか、いつしか自分はそんな判断基準と先入観をもとに本を選ぶようになった。どんな本でも興味をもって読もうとした子供時代の無垢な好奇心は、大人としての賢さと引き替えに退化するのだろうか?



本書は宮崎監督が少年文庫から選んだ作品を紹介する第一部と、「大切な本が、一冊あればいい」と題した児童書への思いを語った第二部からなる。
一部は子供に向けた短いメッセージ付きで五十冊が紹介される。二部の方はテレビ番組「ジブリの本棚」での宮崎氏のコメントを再構成したもので、クレジットは「宮崎駿・著」ではあるけれど聞き書き的な文章で、内容的には中途半端でもの足りない面もあった。
ただ、最後の「三月十一日のあとに」は現在の彼の率直な心境が語られていて、喪失と破局に向かう時代にクリエイターとして何をなすべきか迷っている様子がうかがわれ、興味深かった。「いま、ファンタジーはつくれない」彼はそう語っている。



宮崎さんの児童文学への思いは、先に読んだ『アンのゆりかご』の村岡花子さんと重なるものがある。また、それは彼自身の創造へのスタンスでもあると感じた。子供に何を伝えるか。何を残すのか。語られているのは本のことだけではない。

自分は大人の身としてしか見ることができないのだが、児童文学というのは、世代を越えて語ることができる貴重な共通体験でもあることを思う。自分より三十以上も年長の(親世代の)宮崎駿氏が読んで感激した本を、同じように自分も読んでいたことの、不思議。他に何があるだろう?
親が読み、子も読む。自分の知らない誰かもきっと読んで知っている。子供でさえ早熟に多様化していく時代にも共有する原体験。そういう習慣と連鎖がはぐくんできた文化。石井桃子さんや角野栄子さんや村岡花子さんのエッセンスは宮崎アニメにも生かされているのだろう。それが今、断ち切られそうな危機感を宮崎さんは感じている。
床下の小人たち』、『ムギと王さま』、『風の王子たち』…… 自分がまだ知らない物語はまだたくさんある。読むことは、きっと伝えることの一部でもある。