アイザック・アシモフ / われはロボット


アイザックアシモフ / われはロボット[決定版] (431P) / ハヤカワ文庫SF・2004年 (111204−1208) 】

I,ROBOT by Isaac Asimov 1950
訳:小尾芙佐



・内容
 ロボットは人間に危害を加えてはならない。人間の命令に服従しなければならない…これらロボット工学三原則には、すべてのロボットが必ず従うはずだった。この三原則の第一条を改変した事件にロボット心理学者キャルヴィンが挑む「迷子のロボット」をはじめ、少女グローリアの最愛の友である子守り用ロボットのロビイ、ひとの心を読むロボットのハービイなど、ロボット工学三原則を創案した巨匠が描くロボット開発史。


          


アシモフというと「銀河帝国興亡史」シリーズや「ミクロの決死圏」などが思い浮かぶ。東欧系の名前もあって、自分の苦手なハードSF作家という先入観を持っていた。ロボット/AI物SFの古典的名作といわれるこの作品も、人間とロボットのギスギスした関係や戦いが描かれているものだと思いこんでいた。ところが……
冒頭の‘ロビイ’に登場するのは八歳の少女の子守りロボットで、彼は少女とかくれんぼをしたり、お話を聞かせてもらうのが大好きなのだった。子守りロボットがこましゃっくれた少女に子守りされるという微笑ましい光景を見せておいて、やがてその二人(?)の仲が引き裂かれる…という展開はお伽話みたいで、不覚にも泣きそうになってしまった。
このささやかなメルヘンには、べつに「ロボットのロビイ」ではなくても大切なペットでもぬいぐるみでも良いはずのものが、やはりロボットでなければならない結末が用意されていて、導入部としてこれ以上ない出来映え。ようこそ、“I,ROBOT”の世界へ、というわけである。

わたしはロボットが好きです。人間よりもずっと好きです。もし行政長官の能力を備えたロボットが開発されたら、それは行政官として最高のものとなるでしょうね。ロボット工学三原則によれば、彼は、人間に危害を加えることはできないし、圧政を敷くことも、汚職を行うことも、愚行に走ることも、偏見を抱くこともできないのですからね。


ロビイに続いてスピーディ、キューティ、デイブ、ハービイと進化したユニークなロボットが登場する。
21世紀半ば、彼らは地球上で人間と共存してはいない。労働団体や宗教団体の強硬な反対によってロボットは宇宙空間での活動に限定されているという設定。
ときに嘘を言ったり哲学的な内省にふけったりして使用人を途惑わせるロボットたち。
‘われおもう、ゆえに…’のキューティは自分は創造主に仕えているのであり、人間に仕えているわけではないなどとほざく。「消えちまえ!」と罵られて消沈したロボットは他の星に運ばれようとして新品のロボット倉庫にまぎれこむ。62体のはずなのに63体あってどれがそいつなのかわからないという大騒動に発展する。回路異常かプログラムのミスかと技術者やロボ心理学者(!)は頭を抱える。
そうしたトラブルはすべて「人間に危害を加えてはならない」を第一条とする「ロボット工学三原則」に則った行動だったことが判明するのだが、ロボットのくせに妙に人間みたいなことをするからややこしいことになるのである(笑)



巻頭に掲示されている「ロボット工学の三原則」。シンプルに人間とロボットの関係を規定しているのだが、それゆえに拡大解釈が可能で、また弾力的な運用もできる。優秀なロボットたちは「人間への危害」が物理的な肉体の損傷や生命の危険だけでないことをよく知っている。たった三条でロボットの存在意義と義務を説明したそれは、同時に人間の当たり前の倫理規定としても安全規則としても読むことができる。
ヒューマノイドロボットが進化して人間とロボットの境界が曖昧になっていくと、必ずどこかで「ロボットであろうがなかろうが」という判断を迫られるときがくる。その判断を下す権利を持つのは人間なのだが、それは「人間であろうがなかろうが」の裏返しのはずでもある。
いつか人の能力を上回る究極のロボットが登場したときを描いた最後の二篇まで、書かれているのは実は人間側の態度ではなかったか。

 「話したまえ、キューティ。おまえは面白いやつだ」
 「主はまずはじめに、もっとも単純なタイプであり、きわめて容易に組み立てられる人間をお創りになりました。それから次の段階として、人間たちを徐々にロボットに置きかえていかれた。そして最後にわたしをお創りになった、最後の人間のあとを継がせるために。今からは、このわたしが、主にお仕えしていく」
 「そんなことはしないでよろしい」


自らが創造したロボットをやがて敵対するものとしてしまうのはわれわれの文明の自作自演であり傲慢の証明にすぎない。(原発だってそうではないか?) 人間がつくるものには人間が写されるのだとしたら、寛容で健康なユーモアの精神を持つロボットだってあったっていい。
この短篇集が発表されたのは1950年。物質文明を謳歌するアメリカで名作SFが続出した時代だが、この作品集には意外に文明批評的な味付けは薄い。オートマチックなマシンに頼りきって人間が脆弱になっていくというふうには書かれていない。
半世紀以上が過ぎて、現実には人間の方はどんどんヘボになる一方だと思わされる昨今。大災害や沖縄の基地問題で国の指導層にある者たちが示したふぬけぶりには、ここに登場する賢いロボットたちの方がよっぽど的確な対応をするだろうと思ってしまう。彼らは、少なくとも人を傷つけようとはしないのだから。
ロボットの方がマシ。政治だってロボットがやれば良い。そんな時代が来るやもしれぬ。しかし、人工知能にはできない分野もある。それは想像力を要する、たとえばこの“I,ROBOT”を書くような仕事である。