ジェイン・オースティン / 高慢と偏見


またしても『高慢と偏見』。今年二回目だが『高慢と偏見とゾンビ』があるので(そのせいで若干の記憶の混乱もある)、気分的には三回目。しかも映画まで観てるし。



【 ジェイン・オースティン / 高慢と偏見 (上359P、下375P) / 光文社古典新訳文庫・2011年11月 (111225−1229) 】

Pride and Prejudice by Jane Austen 1813
訳:小尾芙佐



・内容
 溌剌とした知性を持つエリザベスと温和な姉ジェインは、近所に越してきた裕福な青年紳士ビングリーとその友人ダーシーと知り合いになる。エリザベスは、ダーシーの高慢な態度に反感を抱き、彼が幼なじみにひどい仕打ちをしたと聞き及び、彼への嫌悪感を募らせるが…。


            
        

今年六月の 自分の感想 を読み返すと、「この作品こそ‘古典新訳’がもっとも望まれる本ではないか?」なんて書いてあって驚く。その期待どおり、古典新訳文庫に待望の女性訳者による『高慢と偏見』が加わった。
最初のページにしてすぐにこれが瑞々しく新鮮な語りに生まれ変わっているのがわかった。これからはこの訳がスタンダードになるとの予感を深めつつの再読。ハヤカワ文庫なら‘決定版’と銘打つところだろう。ことに主人公エリザベス(リジー)の言動は大胆に若者らしい日本語に置きかえられていて、ビビッドな印象が強い。彼女は才気煥発で溌剌とした女性であり感受性も鋭いのだが、それは若さの裏返しでもあって、この訳では若さゆえのお茶目さや物怖じしない態度がより際だっている。
数ある名場面の中から、ダーシー一回目の告白を、先に読んだ岩波文庫版と対比してみる。

 「わたしは努力しましたが、無益でした。もうだめです。わたしの気持はおさえられません。どうか言わせてください、わたしはどんなに熱烈にあなたを崇拝し、あなたを愛しているかしれないのです。」(岩波文庫 1950年 訳:富田彬)

 「いたずらに苦しみました。でもだめでした。この気持はもう抑えられない。こう申し上げることを許してください、ぼくがどれほど激しくあなたを想い、愛しているかということを」(古典新訳文庫 2011年 訳:小尾芙佐

読書中の人間の脳はよくできたもので、多少の古さや停滞は感じても自分の世界観に変換しながら読み進めることができる。だが、こうして二つの文を並べてみると、リズムも語彙の選択も後者の方がしっくり感じられるのは、同性の感性なのか、訳者の技なのか。



この訳でもう一つ強く感じたのは 著者の堂々とした書きっぷり。こんなものを二十歳そこそこで書いていたジェイン・オースティンの凄さをあらためて感じたのだが、ここまで彼女の自信に満ちた筆致が伝わってくる日本語版はなかったと思う。反発しあい、次第に惹かれあっていくリジーとダーシーの向こうに作者の姿が見えてくる。これは原作に強い共感を抱いた訳者が仕事以上の何かを注ぎこんだ成果でもあるのだろう。
この作品には「好き」「嫌い」だけでは説明できない人間のあらゆる感情がこれでもかと盛りこまれている。怒り、疑念、憎しみ、屈辱、嫌悪と、好意、好感が行きつ戻りつして入り混じり、自尊心や虚栄心が取り除かれると霧が晴れるように感謝と敬愛に至る。ときに粗野で下世話でもあるのだが、その微細な心の揺れ乱れを登場人物の目線ではなく高みから見つめているからこそ、朗らかなペーソスとユーモアが活きた作品になっている。この新訳では文豪の風格すら感じられるのだ。
主人公の男女だけではない。ベネット一族とビングリー、ダーシー兄妹、コリンズとレディ・キャサリン、登場人物の誰もが一定の役割をふられていて無駄な配役は一つもない。それぞれの個性がダーシーの婚約者選びにいちいち影を落とし、もつれ絡まりあうのだが、すべてのパズルがはまるとき、初めて鮮やかな反転を見せる。コリンズの余計なお節介やド・バーグ夫人の刺々しい態度すらグッジョブ!と思えてくる。本当によくできていると感心しきりの再読だった。



この物語が現代でも面白いのは、なし崩し的に男女が結びついては「運命」とか「真実の愛」とか叫ぶ現代小説とはちがって、簡単に恋が成就しないからだ。相手が自分にふさわしいかどうか、自分が相手につりあう人物かどうか、観察を重ねて見きわめようとする。惚れた相手に自分の誠実さをいかに伝えて理解してもらうか。いわば「愛の証明」をそれぞれが果たすことが結婚の前提条件なのである。
コリンズとシャーロット・ルーカス、ウィッカムとリディア、二組の世俗的な結婚騒動を同時展開させながら、もっともありえない形のラブストーリーが進行する。ところが、ひとたび身分の壁を取り除いてしまえば、そこにあるのは恋愛結婚の理想像なのだ。
ジーと二人きりになったところでちょっかい出してその気にさせるなんてことは、紳士たる者するわけにはいかない時代なのである(やっぱ庶民で良かったぁ〜なんて率直な感想はこの場合論外)。それは『ジェイン・エア』のロチェスター氏も同様だったのであって、告白なんて軽々しくするものではなく、一世一代の決意をもってするべきものなのだ、と今さらにして身を質される思いである。若気の至りとはいえ「恋のテレフォンナンバー大作戦」とか「謎のラブレター連続攻撃」とか反省しな 百年後、「ダーシーがコクったらリジーはキョヒった」なんて日本語訳にならないよう願う。
でもダーシーと比べるとロチェスターは甲斐性なしで女運が悪くてなんだかなあ…なんて、男から見たヒーロー像はあっさり逆転してしまった。



「訳者あとがき」にて小尾さんは「これまでの仕事の中で文字通りにもっとも難しい作品だった」と述べておられる。主にSF畑で数々の名訳を残されてきた大家が、である。
でも、アルジャーノン・ゴードン効果も人工知能自閉症のルウの気持ちも見事な日本語にしてきた人だから、この翻訳をものにできたのだとも思う。適材適所というならこの人ほど、たとえそれが白痴やロボットであろうとも、英文に書かれた感情の揺らぎを日本語で表現するのが堪能な人はいない。翻訳の仕事は英文解釈力だけでは成り立たない。おそらく翻訳文学としての『高慢と偏見』は訳者の国語力(それと、もしかしたらSF作家以上の想像力!)に委ねられる作品なのであり、きっとフランスでもドイツでもスペイン語圏でも同じ困難があるのではないか。英国で匿名作家の作品として世に出たのが1813年。ほぼ二百年が経過して、日本でこういう訳本にめぐりあえたことを心から喜びたい。

オースティンは41歳、C.ブロンテは38歳、E.ブロンテにいたっては30歳でこの世を去っている。
当翻訳者・小尾芙佐さんは1932年生まれの当年、なんと89歳!。今なおこうしてエネルギッシュにクラシックに新たな生命力を吹きこんでいる。そのストーリーにも感銘を受けている。