山本 弘 / アイの物語


ずっと読みたかったこの作品。二晩で四百ページ以上読んだのは(今のところ)今年最高。おかげで、すっかり‘こたつ星人’になっている。



【 山本 弘 / アイの物語 (584P) / 角川文庫・2009年 (120107-120110) 】



・内容
 人類が衰退し、マシンが君臨する未来。食糧を盗んで逃げる途中、僕は戦闘型アンドロイドと出会う。戦いの末に捕えられた僕に、アイビスと名乗るそのアンドロイドは、ロボットや人工知能を題材にした6つの物語を毎日読んで聞かせた。アイビスの真意は何か?なぜマシンは地球を支配するのか?彼女が語る7番目の物語に、僕の知らなかった真実は隠されていた―機械とヒトの千夜一夜物語。 (2006年刊の文庫化)


          


SF誌等に既発表されていた五話と、書き下ろしの二話、全部で七篇の物語をアンドロイドの‘アイビス’が‘僕’に語り聞かせる。各話とも魅力的で飽きないのだが、大枠には、それぞれの物語を通じてアイビスが伝えようとしている真実とは何かというテーマがあって、最後の表題作で彼女の真意が明かされるという流れ。
第一話の「宇宙をぼくの手の上に」や第三話「ミラーガール」、第五話「正義が正義である世界」では作中作、劇中劇の形で仮想空間が同時進行する平衡世界としてコミカルに描かれ、それぞれ独立した短篇としても秀逸だったと思う。物理法則のちがう別階層空間にしか存在できなかったAIがボディを得て‘ブレイクスルー’を果たす過程も織りこんで語られ、後半につながっていく。

 「お前は何を企んでる?」
 アイビスが部屋に入ってくるなり、僕は疑問をぶつけた。
 「僕にあんな話を聞かせる理由は何だ?」
 「君の信念を変えようと思ってる」アイビスはあっさり答えた。「君が言うところの『マシンどものプロパガンダ』を吹きこもうと思ってる」


そうとは知らずに読み始めたのだが、この作品の根底にあるのは、アシモフの「ロボット工学三原則」だった。三原則に直接言及する場面は何度か出てくるし、最後の表題作ではボディを得たアイビスたちAIが「ハービイのジレンマ」に訣別するという展開を見せる。面白いのはアシモフの作品では人間側が原則論にそったロボットの運用を論じているのに対し、本書ではロボット/AI自らが自分の行動が原則を逸脱していないか判断力を持っているところ。いわば、新世紀版『われはロボット』であり、アシモフへのオマージュともいえるだろう。
そのロボット工学三原則にのっとるのなら、最後まで伏せられている僕とアイビスの(ヒトとマシンの)関係も自ずと想像できるのだが、彼はアンドロイドは人類の敵だと信じている。この若者は設定としては‘人類代表’で二十〜二十一世紀の人類の創作物を伝える「語り部」のはずなのだが、『われはロボット』や『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は読んでないのだろうかという疑問はひとまず脇に置いて読んでいった。



介護ロボットと要介護者の親密な交感を描いた第六話「詩音が来た日」が素晴らしかっただけに、ラストの「アイの物語」はちょっと肩すかしを喰らった気分だった。流れからいけば、胸をわしづかみされるような結末が用意されているにちがいないと、ひとり勝手に盛り上がっていただけなのだが。
「アイの物語」ではアイビスが語ってきた物語を集約しつつ、マシンとヒトが逆転した理由が伝えられる。そして、フィクションは真実よりも正しい、物語は歴史より正しい、と語られる。ロボットとヒトの関わりがフィクションと真実に置きかえられて、いつのまにか真実や歴史の認識論にすり替わってしまった印象。
アンドロイドは自身の物語を語ってはならない。それは「SF小説五大原則」の第何条かにあったはず…… いや、そんなものはないのだが、AIが自分をフィクションナブルな存在だと認めてしまう、その自意識のあり方がどうも面白くなかった。フィクションが真実より正しいかどうかなんて読者の感性に委ねるべきで、登場人物が断定すべきことではない。「たかがフィクション」「たかが物語」でいいものを、無駄に大風呂敷を広げてしまった違和感のようなものが残った。

 モチベーションだ― 詩音はついに自分の生きる目的を見つけたのだ。死を恐れながら死を避けられないという、ヒトが抱える永遠の不合理と、どう折り合いをつけるべきかを見出したのだ。救うべきなのは肉体ではなく心なのだという結論に、誰に教えられたわけでもないのに、自力で到達したのだ。その希望を全世界に広めるという、遠大な理想に目覚めたのだ。


「詩音が来た日」までの六話は一個の人間と一個のマシンの特別な関係が描かれていたのに対し、それらをまとめる目的もあったのかもしれないが、「アイの物語」では人類とマシンの‘種’の差異と許容がテーマになっている。
自分がこんなことを言うのはおこがましいとは思うのだけれど、人間はただ真実や正義の実現だけをめざして生きているのではない。もっと身近なところの、いろんな形の‘愛’を意識して生活している生き物だ。伝えあおう、通じあおうとするとき、相手がヒトだろうがペットだろうがロボットだろうが、同じではないか。そうでなければどうして人の、あるいはロボットの、心の琴線を震わすエモーショナルな物語が書かれよう。最終話「アイの物語」は「愛の物語」ではなかった。ただプロットが明かされているだけだ。たぶん、自分の不満の最大の理由はそこにある。
アイビスと僕が語り合う部分はない方が良かった。二人の会話は説明過剰で、こちらの想像力が入りこむ余地がない。ただ七篇が並べてあればそれで良かったのに、もったいない。そう思わずにいられないのも、七話それぞれはとても良かったからだ。