青柳いづみこ / グレン・グールド 未来のピアニスト


ピアノなんて弾けないのにピアノ本が好きなのは、青柳いづみこ先生のせいでもある。
いつか退職したら「オジサンのためのピアノ教室」に通うのはささやかな老後の楽しみの一つ。ゴルトベルクのアリア、始めの数小節ぐらいなら(もちろん片手だけ)自分でも弾けそうな気がするのだが、どんなものだろうか? グールドのものまねや「まるでアルゲリッチ」(by奥泉光)とかやれたら楽しいだろうなー♪



青柳いづみこ / グレン・グールド 未来のピアニスト (384P) / 筑摩書房・2011年7月 (120111-120117) 】



・内容
 20世紀を駆けぬけた衝撃の演奏家の遺したさまざまな謎をピアニストならではの視点でたどり、ライヴ演奏の未知の美しさをも手がかりに、つねに新鮮なその魅惑と可能性を浮き彫りにする原体験的グールド論。


          


書店の音楽書コーナーをのぞけば、必ず何冊かは評伝か研究書が置かれている。毎年一度や二度は関連番組が教育テレビやBSで放送される。最近も坂本龍一氏の「スコラ」の中で取り上げられていた。他にも名ピアニストはたくさんいるのにどうして彼ばかりが?とは、ふだんそんなにクラシックを聴かない自分でもいささか奇異に感じていた。
本書はその伝説のピアニスト、グレン・グールドがなぜ異端と称され、没後三十年の今なお注目を集めるのか、その理由を詳らかにしていく。つまり、なぜデビュー作がショパンモーツァルトではなくバッハの‘ゴルトベルク’だったのか。なぜあのような演奏、録音をしたのか。天才ゆえか奇人ゆえか。それが衝撃的だったのはどうしてか。そして、彼はなぜステージを降りたのか。
これが評論家や愛好家によって書かれたものだったら、自分は手に取らなかった。読む気になったのはひとえに「著者:青柳いづみこ」だからである。

 おそらくこのときグールドは、自分がホロヴィッツに対抗しうるものをはっきり認識したのではないだろうか。対位法的な作品によって、音楽的にも技術的にも誰も到達しえない高みにのぼること。そのことによって誰とも戦わずして唯一無二の存在になること。


『六本指のゴルトベルク』をはじめ、青柳さんのピアノエッセイはどれも楽しいものばかりだが、これまでの著書の中にもグールドの名前はたびたび登場していた。例の床上30cmという極端に低い椅子(父親特製だそうだ)。鍵盤に屈みこむような演奏姿勢。肩をすぼめて指を平らに伸ばした奏法。右利き、左利き。ハミング。楽譜の解釈と創造性。レコードとライブ演奏の違い。紹介されていたこれらのエピソードからもグールドがツッコミどころ満載のユニークな演奏家であるのはわかるのだが、本書では同業者ならではの専門的な(音楽的な)視点から‘グールド現象’の実像にスポットを当てていく。
グレン・グールドに関しては、すでに世界的に著名な研究・評論書が多数ある。そんな巨人をどうして今、青柳さんが自らの手で書こうとしたのか。本書の読みどころはそこにこそあった。

 とはいえ、私がニヤリと笑うシーンもある。今度はピアノが和音で第一主題を弾くところ、グールドは続く二重トリルを超ハイスピードで弾いているのだ!おや、超絶技巧は嫌いなのじゃなかったの?と思わず言いたくなる。タッチは叩きつけるようで少々乱暴だ。コントロールするのを忘れたの?とも言いたくなる。


自分は特にグールド・ファンではない。何年も1955年盤だけを聴いていて、これが普通の「ゴルトベルク」だと思ってきた者である。バッハの真正な解釈なんてわからないし、楽譜に忠実で正確な演奏がどういうものなのかも知らない。だからこれのどこがストレンジなのかもわからないままずっと聴いてきて、それで困ったことなどちっともないのである。1981年の再録音と比べてみれば、81年盤の方が遅くて(トータルタイムは13分も長い)肩が凝った演奏に思えるほど、55年のゴルトベルクは自分にとってのスタンダードなのだ。
55年盤と81年盤とを比較して音楽性の相違はいくらでも指摘できるのだろうけど、つまるところは年齢相応の変化ということに尽きると思う。向こうみずで怖いもの知らずだった青年が二十五年も経てば角の取れた落ち着いた大人になる。誰もがそうであるようにグールドもそうだったということは、若い頃の彼に貼られたレッテルと矛盾するのではないか。はっきりしているのは、レコードの音は裏切らないということである。
今回、せっかくなのでグールドの他の演奏も聴いてみようと思ったのだが、結局選んだのは“ザルツブルク・リサイタル”。1959年のライブ録音で演目はいわゆる「グールド・プログラム」、メインは後半のゴルトベルク実演というCDである。これで自分が持っているグールドはゴルトベルクばかり三種類になった(笑)
異様な集中力を保った整然超然とした演奏が記録された二枚のスタジオ盤に対し、このライブ演奏には躍動感がある。当たり前の、人間がこれをやっている生々しさがある。スタジオ盤では聴けない乱れや危なっかしさ、歌心と遊び心、ちょっとしたサービス精神まである。ことに29変奏で「これでもか」といわんばかりに流麗壮美にスケールを弾ききって、曲間を空けずそのまま30変奏クオドリベットへとなだれこむ部分は感動的で、ピアノに生命を吹きこんで鳴らしている奏者の姿が目に浮かぶ。その人、グールドという人は、こんなにチャーミングな演奏をする人だったのかと思うと、なぜだか嬉しくてたまらなくなった。
始めは三枚のゴルトベルクを取り替えながら読んでいたのだが、最後の方はこのライブばかりひたすらリピートして青柳さんの文章を楽しんだのだった。


          


逸話、事件、ゴシップの類にグールドは事欠かない。「伝説」はすでに定説として書き尽くされ、一人歩きしているイメージには「ピアニスト」という稀少人種への敬意を欠いたものすらある。青柳さんは本書であらためて音楽家としてだけのグレン・グールドを描こうとした。
引用が多い分、いつもの彼女のエッセイにある軽妙さは薄れてしまった感はある。しかし、ピアニストだからこそ共感し指摘できる演奏技法と演奏者の心理、生理の解説部分には、評論家がどれだけ修辞をつくしても書けない真実が多く含まれているのではないかと思う。
グレン・グールドが巻き起こした論争を、彼女は同じ演奏家としての自分に引き寄せて考える。作曲家の意志を尊重するとしても楽譜をなぞるだけの演奏で良いのか。プレーヤーの創造性はどこまでが許されるのか。クラシックはただの「再現芸術」にすぎないのか。グールドの存在は音楽と演奏家のあり方に関する普遍的な問題提起でもあったのだ。
そして伝わってくるのは、弾く人によって、弾き方によって、全然ちがう音が鳴るピアノという楽器の奥深い魅力である。その点では、いつもの青柳さんの本とまったく変わらないのであった。

デビュー盤の《ゴールドベルグ》が、一部の聴き手の耳には情味に乏しい機械的な演奏に聞こえたとすれば、グールド自身が情味に乏しかったからではなく、むしろ反対で、あり余る歌ごころを緑色の眼鏡をかけることによって別のものに変えたのだ。
 グールドが緑色の眼鏡がわりに使った技法を、私は知っているような気がする。ある種のハープシコード奏法ではないかと思うのである。


自分としてはクラシック音楽界のグールド、というだけでなく、もう少し広くポップカルチャーの中のグールドという存在に興味がある。彼がデビューした1955、56年頃のアメリカといえば、ジェームス・ディーン『エデンの東』、アレン・ギンズバーグ『吠える』、コルトレーンも在籍したマイルス・デイヴィス・クインテット、それにエルビスの「ハートブレイク・ホテル」「監獄ロック」。 ビート・ジェネレーションとモダンジャズとロックンロールの新しい時代の空気はクラシック・ピアノで身を立てようとしていたカナダ人青年の精神にどんな影響を与えたのだろう。
また、ビートルズがコンサート活動を停止、スタジオに籠もってレコーディングアーティストになるのは1966年(多重録音の先駆“サージェント・ペパーズ”が1967年)だが、グールドが演奏会を止めたのは1964年。ビートルズより二年も早いのである!
彼がヨーロッパ人だったなら、と考える。本場の空気を吸い、正統な環境でライバルたちと切磋琢磨して育っていたのなら。突然変異的な彼の異端はただ北米出身だったからではないか、と思ったりもするのだ。