伊東 潤 / 戦国鎌倉悲譚 剋


明日の天候を心配しつつ、こたつ×読書で夜を過ごす毎日。『城を噛ませた男』に続いて、伊東潤さんをもう一冊。外は寒いが、この本は熱かった!



【 伊東 潤 / 戦国鎌倉悲譚 剋 (233P) / 講談社・2011年 2月 (120128-0202) 】



・内容
 安房里見家から送られてきた人質・青蓮尼の姿に、俊英と謳われた玉縄北条家の若き当主・北条氏舜は息をのんだ。関東全域を巻き込んだ小田原合戦は、氏舜を否応なく武人の道、修羅の道に引きずり込むが、仏門に憧れる氏舜は、青蓮尼への想いを抱きつつ、悩み、戦い…やがて悲劇が唐突に訪れる。戦か愛か、交錯する想いを描いた異色の時代長編。


          


今作の「悲譚」の「悲」は、なんと……、悲恋の「悲」だった!
舞台は鎌倉。小田原北条の分家、玉縄北条家の若き当主、氏舜(うじきよ)が主人公。幼少から名家の武将としての英才教育を受け、俊英の誉れ高い彼は22歳の若さで家督を継ぐ。重臣らの信望も篤く、玉縄家の将来も安泰と思われたのだが、彼にはナイーブな一面があるのだった……
氏舜は「うじとし」とも読まれるらしい。歴史上にしっかりした記録が残されていない人物のようで(北条の家系図から抹消された?)、著者は史実に創作を自在に織りこんで魅力的な「武将らしからぬ武将」像を練り上げた。
戦国の世、歴史に名を刻むのは武辺者たる強者ばかりである。武勲と出世、家の名誉のためにはなりふりかまわぬ男たちである。しかし、氏舜はそうではなかった。戦に際しては自軍のみならず敵の犠牲をも最小限に抑え、民を疲弊させるばかりの無暗な進軍を戒める。上杉、武田の侵攻、秀吉の関東進出によって存亡の危機に直面する北条家にあって、武張らない彼への風当たりは強まっていく。

 「人は、その天性の芸に安んじて専念すれば、よいとは思わぬか。稲を育てることに秀でた者が槍を取り、物を商うことに抜きんでた者が弓を引く、そのような現世こそ、間違っておるのではないか」


氏舜の人生観を決定的に変えるきっかけが、尼寺・東慶寺にやってきた一人の尼僧だった。
四十年にわたって抗争が続いていた安房里見家との和睦の証人(人質)として北条方にやってきたのが、「青蓮尼」という若い尼僧だった。彼女の母親はかつて鎌倉尼五山筆頭の太平寺住持だった青岳尼という女性。作中で紹介されている実話‘青岳尼伝説’そのものが俄には信じられないような実に劇的なものなのだが、その娘を鎌倉と因縁深い尼僧として登場させた時点で「勝負あり!」だった。
武家を束ね修羅の道を生きざるをえない氏舜と、ひとり仏に身を捧げんとする青蓮尼の人生がすれちがい、交錯する。互いに想いを寄せながら、それぞれに背負ったものの重さから逃れられない。休む間もなく戦陣に駆り出される氏舜の戦いと同時に、息苦しく切ない禁断の純愛ラブストーリーが進行する。そこには日本の時代劇というより、海外の古典ロマンスに近い匂いがあるのだった。



青蓮尼は北条の命により廃寺となった太平寺復興を祈願して東慶寺に身を寄せている。現在の東慶寺には岩波茂雄西田幾多郎和辻哲郎らの墓があるが、尼寺である当寺には歴史の表には現れない数々のドラマがあるようだ。
権力争いの中心が上方に移った戦国時代の鎌倉。尼寺も含め名刹も多い、かつて栄華を誇ったこの地を舞台にするあたりも、著者の目のつけどころの良さを感じる。
本作は長篇ではあるものの、氏舜と青蓮尼の関わりを四話に区切った短篇集でもある。読む順序が逆になってしまったのだが、 『城を噛ませた男』 は本作に含まれるエピソードから派生した物語を集めたものだった。伊豆水軍、秀吉による関東奥惣無事令、北条と武田勝頼による駿河湾での海戦、武家出身の尼僧、出家と還俗。板部岡江雪も重要な一場面に登場している。
時代小説はまず歴史的事実の大枠があって、作家の裁量はその範囲に限られるわけだが、この作品は主人公の男女両者ともほとんど著者の創作であってフィクション度が高い。時代小説の体裁でありながら、書かれ方は現代小説と変わらないのだ。ひょっとしたら、こちらを『蜩ノ記』にぶつけていれば勝ったんじゃないか?とさえ思える作品だった。

 「仏のために生きんとするわが姪と、修羅道に堕ちた今のそなたとの間には、決して渡れぬ大河が横たわっている」
 「渡ってみせまする」


名門・北条家のサラブレッドの身でありながら自らの将器を慮る氏舜の姿には、やはり現代的な解釈が加えられているように思う。氏舜のジレンマには、巨大組織の中でがんじがらめの個、本家と分家のしがらみ、自我を貫くことの困難さ、など、現代人の葛藤が反映されている。
また、青蓮尼という仏者との問答において、武士小説でありながら「武士とは何か」をも問うてしまうのも、伊東潤ならではだろう。信念が揺らぐ男とぶれない女。終盤、ラブロマンスのヒロインの座をかなぐり捨てるかのように青蓮尼がとった無常無惨な行為のあっけなさもこの作家の得意手である。
NHK大河ドラマや歴史作家の大家のほとんどの作品で描かれるのは、戦に明け暮れ、相手を滅ぼすことがすなわち栄光とする男の大味な世界だ。それを影で支える女たちは武門の女としての自らの運命をいささかも疑わない。そんなヤツばかりじゃないだろ?という反骨が伊東潤さんの根幹にはあるような気がする。武家間の政略結婚によって幼くして他家に嫁がされる少女を、家の都合で出家させられる女を、ただ宿命の一語で片づけない。そこにあったはずの煩悶や悲嘆に思いを馳せるだけの想像力があって、その想像力は信頼のおけるものだと感じている。登場人物に当たり前の生命力を宿す。だからこの人の作品が好きなのである。