カズオ・イシグロ / 日の名残り


先月から水曜夜の20分番組「聴く読むわかる!英文学の名作名場面」(NHK教育)を毎週見ている。
今さら英語を学ぼうというのではないけれど、名作の1シーンを原文で朗読・翻訳する番組で本好きにも楽しめる内容になっている。前後の文脈、ストーリー全体の流れも含めた解説はわかりやすく、ただ英語学習としてだけではなく、作品理解にも役立つこと請けあい。テキストのラインナップは「嵐が丘」「不思議の国のアリス」「オリヴァー・トゥイスト」「高慢と偏見」「ジェーン・エア」…とことごとく自分好みなのも嬉しい。
そして今週のLesson6は「日の名残り」、ということで、放送に合わせて自分も読んでおくことにした。


          



カズオ・イシグロ / 日の名残り (365P) / ハヤカワepi文庫・2001年 (120203-0206) 】

The Remains of the Day by Kazuo Ishiguro 1989
訳:土屋政雄



・内容
 品格ある執事の道を追求し続けてきたスティーブンスは、短い旅に出た。美しい田園風景の道すがら様々な思い出がよぎる。長年仕えたダーリントン卿への敬慕、執事の鑑だった亡父、女中頭への淡い想い、二つの大戦の間に邸内で催された重要な外交会議の数々―過ぎ去りし思い出は、輝きを増して胸のなかで生き続ける。失われつつある伝統的な英国を描いて世界中で大きな感動を呼んだ英国最高の文学賞ブッカー賞受賞(1989年)。


          


イギリス人には書けないイギリス小説。そんな印象が強い。
主人公にして語り手の老執事・スティーブンスによる淡々とした述懐。慇懃な執事口調で執事の職業倫理、長年務めたお屋敷と前主人ダーリントン卿、そして女中頭だったミス・ケントンの思い出が語られていく。
偉大な紳士に仕えることで自分も世界の発展に寄与していると自負するスティーブンスの独白には、英国の古き佳き伝統が香る。しかし、読み進めるうちに、どこか奇妙な欠落感が目立ってくる。精緻な記憶の羅列のようにみえて、徐々に語られてはいない何かが気になってくる。そのうすら寒さ、不穏なムードは『わたしを離さないで』によく似ていた。

 「さようでございますか」
 「さようでございますのだ、スティーブンス。ぼくはね、君こそ本物だと言ってやった。昔ながらの本物のイギリスの執事だとね。この屋敷に三十年以上もいて、本物のイギリス貴族に仕えていた、とね。」


アメリカ人富豪の現主人に休暇を与えられたスティーブンスが英国西部の美しいカントリーロードを往く。旅先の小さな出来事と過去の回想が見事に結びつけられる。その語り口、手際の精妙さは数学的な完成度の高さすら感じられ圧巻だ。
彼の回想は微に入り細に入ったものなのに、本当に真実が語られているのか、読者の不安はつのる。彼が物語るのと同時に、もう一つ別の物語が平行してイメージされる。彼が見ていなかったもの、気づいていないものに(あるいは、見ようとしない、気づこうとしないものに)感づいた読者は、語り手を疑って読むように仕向けられるのだ。
ティーブンスは意識的にか潜在意識によるのか、あるいは執事の防衛本能とでもいうべきものが働いているのか、または彼の父がそうであったように、彼自身も老いから記憶が不確かになっているのだろうか。しかし、作者はその曖昧さはそのままの方が効果が上げることを十分計算に入れている。もしかしたら、その曖昧な部分に著者の明確な意図はなかったのかもしれない。
われわれは一点のミスを全体に連想してしまいがちな生き物だが、ではスティーブンスの語りを全部否定してしまえばいいかといえば、ラストシーンの黄昏の余韻に深く深く胸を突かれて途惑わされるのである。



ティーブンスはしきりと「執事の品格」という言葉を口にするのだが、ひとたび疑念を抱いた目で彼の行動を観察すると、その言葉すら自己正当化のように感じられる。主人の汚名をそそごうとするのは自らの品位を保つための抗弁のようにも。
たとえばウッドハウスジーヴスが「偉大な執事とは何か」などと自問するとは、ちょっと考えにくい。ジーヴスにはジーヴスなりの流儀も矜持もあるのかもしれないが、それをあえて文字にしたり言葉にしようとはしないのではないか? マニュアルなどなく資格試験もなく、誰もが執事とはこういうものだという不文律の慣習を受け継いで名家を ―英国を― 支えてきた。執事職とはそういうものではないか? (もっとも、ジーヴスの優柔不断な若き主人・バーティと英独外交に大きな影響力を持ったとされる本書のダーリントン氏とでは雲泥の差があるのだが)。
執事は英国にしか存在しない。旅の始めに彼は眼前に広がる雄大な風景に英国の偉大さを見る。声高な賞賛など必要なく、ただその佇まいに威厳がそなわっているのだという。英国の伝統文化もまたそのようなものではないかと思う。そして、執事の存在そのものがすでに英国独特の品格の一部に属しているのであって、ことさらにその品位・品格を気にするのは英国的態度ではなさそうにも思える。
やっぱりこれは外部の目線でなければ書かれなかった作品だとの思いは強まるのだが、あるいは、失われた英国を描いた作品だったか。

「言ってくだされば私がどれほど救われたか、あなたにはおわかりになりませんでしたの? なぜ、なぜですの、ミスター・スティーブンス? なぜ、あなたはいつもそんなに取り澄ましていなければならないのです?」


今回の放送で採りあげられたのは、父が危篤状態にあるのを知りながらスティーブンスが平静を装って客人に給仕を続ける場面。「Stevens,are you all right?」 二度までも客にそう尋ねられたことを述懐していながら、彼はそのときの自分の精神状態に気づいていないらしい。
ああ、なるほど。番組中で「信用できない語り手」という批評家の言葉が紹介されていたけれど、このさりげない一場面が、まさにその象徴的な場面だった。
屋敷で主人に尽くすことのみに精進する一方、外部との接触は少なく世情に疎い。ジョークを解さず、ストレートな感情表現を抑えて生きてきたスティーブンス。彼はそれを美徳と信じて疑わなかったが、感情を表さないで生きていると、記憶の中でも感情は封印されたままになってしまうのだろうか。この「ダーリントン・ホール」は後に「ヘールシャム」へとつながって、『わたしを離さないで』は生まれる。
彼の新しいアメリカ人主人は留守にする間、彼に旅を勧める。案外、このアメリカ人の陽気で暢気な性格が対照的に‘英国的なるもの’を鮮やかに際だたせているのである。