久保俊治 / 羆撃ち


三年前の刊行時、店頭で幾度となく手にしてはさんざん購入を迷った本が待望の文庫化。やっぱり良かった! 缶コーヒー5本分でこれが読める。安いものではないか。



【 久保俊治 / 羆撃ち (348P) / 小学館文庫・2012年 2月 (120210-0215) 】



・内容
 北海道の大地で一人羆を追う孤高のハンターと比類無き才能を持つ猟犬フチとの迫力と感動に満ちたノンフィクション。大学を卒業後、就職せずに狩猟のみで生きていくことを決意した著者。猟銃と僅かな装備だけを手に山を駆け巡る生活の中で体感した自然の驚異と現実を瑞々しい感性で描く。


          


聞こえるのは自分の息と雪を踏みしめる音だけ。人里はなれた厳寒の山中をただ一人、髭も睫毛もつらら状に凍りつかせたハンター(著者)が行く。
狩猟というのは実際に獲物に対峙するよりはるかに長い時間を準備と追跡に費やす。雪の上に新しい足跡を見つけると、何日もかけてひたすらそれをたどって行く。尾根を越え沢を渡り、ビバーク(野営)してさらに山奥に踏み入っていく。獲物の痕跡がはっきりしてくる。近くにいる確信が強まる。気持ちが昂ぶり、鼓動が早くなる。どこまでも淡々と白い寂寥の雪山で、出会うはずのないまったく無関係な生き物二つが邂逅する。目と目が合う。深閑とした森と谷に銃声が谺する。一瞬、毛が逆立って全身が膨らんだように見えた獣は雪煙を上げて崩れる。
苦しげに喘いでいたシカの吐く白い息がだんだん薄くなっていく。潤んだ黒い瞳が何も映さなくなって、すうっと透明な魂が宙に流れ出る瞬間を見送る。
冷厳としか言いようのない徹底的で圧倒的なリアリズムに、ただただ痺れた。



殺した動物はその場で解体する。内臓を分け、皮を剥ぎ、肉を裂き、骨を断つ。死の間際、興奮して暴れたり、傷を負ったまま逃げた動物の肝は鮮度が落ちる。だからなるべく苦しませずに斃したいのだという。
奪った命を無駄にしないよう内臓の一部は森に返し、残りの部位を持ち帰る。羆の皮だけでも数十キロの重さがあるが、荷物を背負って何度も往復して運ぶ。それは狩猟法により定められているのでもなく、先人に教えられたのでもない。ルールでも信念でもない。猟師が身につけた習慣みたいなものだ。
『ウィラモラ』 を思い出す。北米の先住民族もアフリカの少数部族もそうするのだ。野生動物を殺し、自然の恩恵に浴して生きる人間に共通の態度。住んでいる大陸も人種も信仰も違うのに、その考え方が同じであるのはどういうことなのか考えてみたくなる。
エネルギーを浪費している現代人が、「ナチュラル」とか「エコ」とかの思想として、あるいは「アウトドア」とか「自然体験」とか称する娯楽としてしか認識できないものと似ているようで、まったく違う。都市型生活では実感できない‘自然のメカニズム’と‘命のサイクル’。その中の一部としてハンター=著者は生きているのだ。

 乱れてくる呼吸を整えながら、一歩一歩登る。重い。この重さは羆の命の重さなのかもしれないと思う。こんな山の奥から運び出す苦労は、覚悟の上である。引き金に力を加える前に、獲物の全責任を負うことを誓ったのだから。斃された命を決して無駄にはするまい。運びきって、生きてきた価値を俺を通して発揮させてやるのだ。そう自分に言い聞かせながら歩く。


たった一頭の獣を仕留めるために注ぎ込む労力と時間を著者はかえりみたりはしない。そこに効率や対費用効果の概念なんて一片もない。ついそんなことを考えてしまう自分が嫌で嫌で仕方がないのだが、反面では著者の姿がすごく羨ましいのだ。仕事がイコール生きること。生命維持の生活行為が仕事である自然さ。すべてを自分の責任において引き受ける潔さ。現代では(少なくとも、システムの中でしか生きられない自分には)なかなか実現できそうにない。
『オオカミの護符』 にも書いてあったとおり(そして『バタアシ金魚』にもそんな場面があったっけ…)、労働ではなく仕事、職業ではなく生業(なりわい)。猟師のみならず、かつて人の暮らしはみなそのようなものだったのだろう。
こういう話を読むとき、大仰にもつい自分の‘人間の本能’が共鳴しているような錯覚に浸りがちだが、安易な同調はあえて避けたい。そんな野性はとっくに退化してもう無いのだから。腹を満たして暖房の効いた室内でそんな感想を口にするのはお門ちがいというものだろう。野生動物の命を奪って食う、その意味よりもまず先に、獣と対等に己の命を懸ける峻厳な覚悟を身に沁みさせたい。大自然のただ中では人もまた一個の獣であるしかないのである。



ビバークの夜、ロウソクを灯すと裏地に張りついた霜が乱反射してテント内はきらきらと明るい。室内が暖まるにつれて霜が溶け、だんだん薄暗くなっていくのだという。かじかんだ指を裂いた動物の腹に入れて暖めて、取り出したばかりの心臓を火で炙って食うと少し鉄の味がして旨いという。そんな、実体験からしか書けないエピソードが続く。
かすかに葉が擦れる音。危険を察知して獣が警戒する気配。空気中にたちこめる血と火薬の臭い。視覚よりも聴覚と嗅覚が頼りの世界だ。息を潜めて見えないものを感じとろうとする、そのせめぎ合い。フィクションでもノンフィクションでも、とかく映像的な描写を志向する作品が増える中、本書の読書体験は実に新鮮だった。
銃の砲声と獲物の断末魔の悲鳴以外は静かな文章が続くのだが、後半、少しだけ雰囲気が変わる。猟犬と共に狩りをするいう著者の夢を叶える一匹のアイヌ犬が登場する。その愛犬「フチ」の成長に目を細め、口元をほころばせる著者の姿が良いのだ。どんな優秀な猟犬も主人のレベル以上には育たないとする生真面目な著者らしい厳格な飼育方針とは裏腹に、愛情たっぷりの親バカぶりも頬笑ましい。 

昨今の熊騒動は、ただ温暖化と開発の影響で山に餌がなくなってきただけではなく、簡単に餌を手に入れようとする文化が熊のあいだにも広まっているのだと著者は言う。モラルの低下は人間界だけではないということか。羆の領域、人の領域。交わることのなかった文化圏の境界が消えつつあるのか。
狩りの場面はオオカミの狩りに似ていると感じた。ハンターの生業はオオカミの流儀に通ずるものがあるのだった。もしかしたらこの人もオオカミぞくの      


読了後、ふと思い出して読み返した。宮沢賢治『なめとこ山の熊』(新潮文庫風の又三郎』に収録)