管 啓次郎 / 狼が連れだって走る月


ちょっと敷居が高いのは覚悟して読んでみた。壮大な誤読の可能性あり。



【 管 啓次郎 / 狼が連れだって走る月 (346P) / 河出文庫・2012年 1月 (120217-0221) 】



・内容
 旅の倫理と野生の哲学を探求する詩人思想家の不滅の名著(1994年刊)。土地の精霊たちの言葉と記憶を呼び覚ましながら、その彼方に新たな世界の魅惑と文学の力を見出す輝かしく美しい詩と思考の奇蹟。序文・よしもとばなな


          


アルバカーキ、サンタ・フェ(ニューメキシコ州)、トゥーソン(アリゾナ州)、シアトル、ホノルル。コロンブス以前から北米大陸に暮らし続ける「土地の人々」を訪ね、彼らの詩と文化に触発される比較文学者の批評的随想。キリスト教の衣を纏った‘白いアメリカ’の支配と迫害は五百年に及ぶが、しかし先住民は合衆国建国のはるか数千年も前から変わらずアメリカの大地に生き続けてきた。
ナヴァホをはじめとするインディアン、ハワイ諸島マオリ、アラスカ・カナダのイヌイット。行政上、アメリカの領土とされるこれらの地はもともと彼らの国である。アメリカのパスポートをふりかざす通りすがりの観光者目線ではなく、彼らの伝承知に学ぶ‘非本質的インディアン’として見つめて「新しいネイティヴィズム」を説く。

 しずかな秋の午後、無言の太陽の光の中で、別の種に属するふたりの女が対話する。この情景には、何か鮮やかな高揚を感じさせるものがある。それは長いあいだこの地方から失われ北に追いやられていた狼たちが、着実に秘密の帰還をとげ、彼らと人間とのインターフェースを南にむかって回復しつつあることをしめす、記念すべきできごとだった。


アメリカン・ネイティブの彼らの土地への強烈な帰属意識はそのまま彼らの信仰であり民族的アイデンティティでもあるが、それを自分とは無関係のエキゾチズムとして眺めるだけなら、自然を遠ざけ野生に対立することで皮相な存在を正当化してきた帝国主義的汚染から逃れられていないのだ。
土地に住みついて、その水、その土、その栄養を生命に流れこませ、いつか自分の肉体もその大地に還す。それは最小限のエネルギーを最大限に活用しようとする生き方の実践であり、生命のサイクルに自らの身を置く能動的態度であり、この数百年のあいだ繰り返されてきた侵略的発展の流れに対抗して真の人類史を回復する試みだ。「新しい場所の文化」を創造するのに血も肌の色も関係ない。己の源泉たる土地の聖性への感受性を失わないかぎり、誰もがプリミティブな存在で、誰もがインディアンなのだから。



表題にもなっている「狼が連れだって走る月」の章には、自分の『熊撃ち』の感想と重なる一文が出てきてびっくりした。北極圏の先住民はオオカミをまねて狩りをしていたというのだ! だが考えてみれば、同じ大地で同じ獲物を追う人とオオカミが同じライフスタイルを持って共生していたというのは、まったく自然なことではないか。
たった8ページのこの文章は、これまでに読んだオオカミに関するあらゆる文章の中でももっとも美しく、さりげなくわれわれの憲章に滑りこませておきたいと思ったほどである。北へ、さらに北へと追われ、絶滅が危惧されたオオカミが秘かにアメリカの荒野に帰還を果たすという本章の物語は、マイノリティの精神の不屈と不滅を語る本書全体の象徴部分でもある。(ディランの‘自由の鐘’を口ずさみつつ)ここにその全文をそっくり引用して、ただ一言、「そういうことなのである」とだけ添えておけば、本書の感想としてそれ以上のものはないと思われるのだが、そういうわけにもいかずにこうして駄文を連ねているのが残念である。
「狼が連れだって走る月」とは、ネイティブ・アメリカンのスー族が12月の冷たい月をそう呼ぶのだという。

 狼の大地としての北アメリカ。この大陸の「土地の人々」はそのことをよく知っていた。狩猟に暮らす彼らにとって、比類無き狩人である狼という「人々」は、おなじ大地におなじライフスタイルを持って共存する仲間、ときには見習い、うやまうべき相手だった。人は狼に狩猟の方法を学び、狩る者と狩られる者をむすぶ倫理を学び、自分たちの社会に応用すべき掟を学んだ。


土地の精霊は超自然の神秘的な不可視の存在ではない。祖先以来の土地に住みついた人々の生活と言葉に今なお宿っている。詩と文学はその証言者である。
著者のブログをのぞいていて、こんな言葉を見つけた。

 ―「言葉は無力です。物理的に無力です、それは石も木々も動かさない。けれどもその無力さが発火させ誘発する行動がある。そしてその行動がどれほどまたさらに無力でも、その無力さをもってしか変わらないことが世界にはある。」

昨年三月、古川日出男の朗読に触れた記事だった。
「無力さをもってしか変わらないことが世界にはある」「言葉の無力がはたす逆説的な力」。現実への実効的対抗手段としては微弱かもしれない。レトリックにすぎないと言えば、そうかもしれない。でも、言葉の、文学の力を信じる者だけが持つことのできる話法は、魔法なのである。何に対してなのかよくわからないが、自分が勇気づけられたのは確かである。
御前崎、福島、敦賀、美浜、玄海、伊方、高浜… それぞれの土地にもそれぞれの精霊はいた。五十年前、彼らの声に耳を澄まさなかった。現在の日本の状況はそこに始まるような気もするのだ。