佐宮 圭 / さわり

【 佐宮 圭 / さわり (277P) / 小学館・2011年11月 (120221−0225) 】



・内容
 日本が誇る不世出の男装の天才琵琶師が蘇る― 昭和42年、ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団創立125年記念公演で、小澤征爾らとともに、武満徹作曲の名曲『ノヴェンバー・ステップス』を琵琶のソリストとして演奏。その高い音楽性は世界的に評価されたものの、日本ではほとんど知られていない不世出の女流琵琶師・鶴田錦史の数奇な人生を綴ったノンフィクション。音楽家としての顔だけでなく、実業家としての顔を持ち、大正、昭和、平成を駆け抜けた人生は波瀾万丈そのもの。10年以上にわたって取材を続けた著者が丹念に描く。2010年、第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞受賞作品。


          


女流琵琶奏者・鶴田錦史(1911〜95)。男性名なのに、「女流」の二文字が。しかも、‘彼’と書くべきか‘彼女’と書くべきか、その人はステージに上って大衆の目に身をさらす邦楽界の大家であり、クラシックの演奏会―武満徹『ノヴェンバー・ステップス』海外公演は二百回を数えるというのだ。
なぜ男装を?どんな事情で? 男が女を名乗る電波芸者が珍しくない現代感覚からしても、背景のきな臭さ、ほの暗さは予感されるのだが、それ以上に、そんな転身を思いつき、実行し、半生を貫いた意志と、それがまかり通った時代性に興味をかき立てられて読み始めた。



天才少女と謳われた鶴田菊江(本名)が鶴田錦史に変わる、その大いなる謎がどのように明かされるのか、わくわくしながら読んだのだが、年表に沿って鶴田の足跡を駆け足でなぞっただけのようなそっけない文章構成に興を削がれた。
戦中から戦後、ナイトクラブ経営などの事業家として成功していた鶴田が琵琶界に男として復帰する。保守的であったろう古楽界の動揺や社会的反響はほとんど記されていない。特に、少女期から同い年の美貌のライバルとして描かれ、鶴田が去った琵琶界を牽引していた水藤錦穰はどんな思いで彼女の復帰を迎えたのか。宗家と弟子の間柄の確執が伝えられ、一度は袂を分かった二人(琵琶の‘天才’と‘至宝’)が鶴田の復帰後、何事もなかったかのように演奏会で共演しているのには違和感をおぼえる。当然そこにあったはずの水藤の鶴田に対する感情、「なぜ?」が書かれていないのだ。後に登場する武満徹小澤征爾鶴田錦史という人に体面したとき、どんな気持ちだったかも素通りのままだった。
本人が過去を封印したという事実もあるだろう。また、現実問題として資料不足もあったこととは思うが、核心に関わる部分が省略されているのには読んでいて欲求不満がつのった。

 さすがの鶴田も緊張していた。プロデューサーから、前もって忠告されていた。
「武満先生って、なかなかうるさい方ですから、もしかしてお気にさわるようなことをおっしゃるかもしれないけれど、どうぞ、お気になさらないように」


明治後期〜大正、昭和初期の大衆娯楽としての琵琶は今では信じられないほどの人気を博したそうだ。レコードもラジオもない時代、人々は演芸場や寄席に足を運んで生の芸を楽しみ、琵琶教室の看板を掲げればたちまち大繁盛したという。鶴田菊江は小学生の頃から「お師匠さん」として自宅で琵琶を教え、活動写真(無声映画)の弁士などもして目まぐるしく働き、貧しい一家の稼ぎ頭になった。
関東大震災、2・26事件、満州事変から日清、日露戦争、さらに太平洋戦争へと時代は激動。平穏無風な人生を送った者など一人もいなかったのだと思う。たださえ自らの正確な来歴を記録している人すら限られるだろう。
それを踏まえて一人の人物伝を書くことの難しさを感じないではないが、それにしても菊江時代と後半の錦史時代のボリュームの差が大きすぎるように感じられてならない。不ぞろいな素材を平らに並べて均等に割った構成は全体にピントを当てているように見えて実はぼやけている。要所要所で説明不足が目立って厚み深みに欠ける。もしこのような小説スタイルではなく、取材源を明かした聞き書きスタイルだったなら違ったのではないか。



罪を犯して逃亡を図ろうとするのでもないのに、性を偽り変装し別の名前で生きなおす。そんな「あらまし」から想像していたドラマは描かれていなかった。自分が一方的に「物語性」を期待しすぎていたのかもしれないが。
武満徹が映画『怪談』のサウンドトラックに鶴田を抜擢してから、当時三十代前半の若き小澤征爾とともに『ノヴェンバー・ステップス』初演成功に至るまで、またそれ以後の鶴田錦史の活動を描いた後半の数章は悪くなかった。もしかしたら自分勝手に思い描いていた本書の核心と著者が目論んでいたクライマックスがずれていたのかとも思うのだが、いずれにしても本当の鶴田錦史には肉迫できていないのではないか。
それは鶴田の「琵琶への想い」が決定的に欠けているからである。一度は捨てた琵琶を再び手にしたのはなぜか。名前を変えて男を名乗るのがそのための手段にすぎなかったのだとしたら、鶴田自身が琵琶という楽器を、自分の奏でる音楽を、どんなものと考えていたのか。実際問題として、二十年以上ものブランクを経て第一線に復帰するには相当な修練を要すると思われるのに、そのあたりは一行も触れられず、ずいぶんとあっさり復活を果たしたように見える。演奏家の評伝なのに音楽が語られていない。それが本書最大の欠点だ。
武満徹鶴田錦史に白羽の矢を立てたように、著者は鶴田を選んだであろうか? → 文藝春秋「本の話WEB」 〈 文春写真館 あのとき、この一枚 / 武満徹 〉

女性が性を捨てようとする心理を現代男性が書く。その限界も。