大島真寿美 / ピエタ


ピエタ』と『スターバト・マーテル』を続けて読む。
本屋さん大賞候補『ピエタ』を読まれる方は多いと思うが、『スターバト・マーテル』も、となるとどうだろう?
水上都市ヴェネツィア、作曲家ヴィヴァルディ、ピエタ慈善院でヴァイオリンを習う孤児たち。偶然とはいえ、舞台設定がまったく同じ二冊。さて、その違いやいかに。



大島真寿美 / ピエタ (277P) / ポプラ社・2011年 2月 (120226−0228) 】



・内容
 18世紀、爛熟の時を迎えた水の都ヴェネツィア。『四季』の作曲家ヴィヴァルディは、孤児を養育するピエタ慈善院で〈合奏・合唱の娘たち〉を指導していた。ある日、教え子のエミーリアのもとに、恩師の訃報が届く。一枚の楽譜の謎に導かれ、物語の扉が開かれる― 聖と俗、生と死、男と女、真実と虚構、絶望と希望、名声と孤独…… あらゆる対比がたくみに溶け合った、これぞまさに“調和の霊感”!


          


終わってほしくない小説、というのにときどき出会う。登場人物の一挙一動に目が離せなくなり、意外な結末に驚いたり心を揺さぶられたり、そういう感動とはまた別の、物語の世界にどっぷりと浸らせてくれる作品。本を持つ左手側のページが薄くなっていくのが惜しい。この辺で今日は止めておいて明日最後までじっくり読もうと(A型根性丸出しで)思うのに、右手が勝手に機械的に頁を繰るのを止められない。ああ、明日も仕事なのに、自分は今や完全無欠の‘本読みロボット’と化している…と妙な自覚(言い訳?罪悪感?)をしつつ、どんどんどんどん入っていく。
この『ピエタ』もそんな作品だった。本を閉じても何かにガチッと接続されていてすぐには現実に帰還できない。深夜遅くに読み終えて、こたつに突っ伏したまましばらく動けなかったのは、自分が寒がりなばかりではない。

「たとえ、わたしが貴族ではなくスカフェータに捨てられた赤ん坊だったとしても、一世を風靡したコルティジャーナであったとしても、そう、どこでどういう暮らしをしていたとしても、わたしがわたしであるかぎり、わたしは今宵、ここにこうして流れ着いたような気がします。流れ着く、なんておかしいかしら。でも、そんな気がするのです」


孤児院で育ったエミーリアとアンナ・マリーア、貴族のヴェロニカ、高級娼婦クラウディア、薬屋の女房ジーナ。生まれも育ちもちがう女性たちだが、彼女たちはみんな「ピエタの娘たち」だったという、静かな物語。
もう若くはない彼女たちが語らいあう様子を読んでいると、自分もその場にいるように感じられてくる。読む、というより彼女らの声に聞き耳を立てている感じ。その距離は縮まっていき、いつしか同じ時間を共有している気分になっていて時を忘れてしまう。
少し具体的なことを書くと、「 」で括られる現在進行中の会話部分と「 」を付けないモノローグの使い分けが絶妙。カギ括弧(の記号)をどう使い分けているのか気にして読んでみたのだが、はっきりした規則性はなさそうだった。ただ言葉の、文字の列なりの直覚的な音感を優先したということだろうか。言文一致の自然な会話文のように見えて、実はものすごく繊細に言葉が選ばれていて、読む者を包みこむ柔らかな文体が実現されている。
それは著者が書いたというより、胸のうちに聞こえるエミーリアやヴェロニカの息づかいを写したのではと思われる。読者が見せられるのは、著者の中に十分に生きている者たちの肉声なのである。



自分を捨てた母親探し、エミーリアへの求婚者の翻意、大作曲家ヴィヴァルディの真の姿、失くなった楽譜の行方。少しミステリアスな趣きを匂わせつつも、物語は謎解きではなく、導かれ、結びつき、答ではない答を与えあう女たちの半生を浮き彫りにしていく。
孤児の悲哀、貴族の悲哀。言い出せなかったひと言、忘れていた詩。心悩ませていた後悔や未練が柔らかな記憶に変わるとき。自分だけの秘密だったものが、思ってもいないところにつながっていた驚き。
特別なものはない。カーニバルの夜、施設を抜け出して実母を捜すエミーリアを手助けした仮面の男は誰だったのか? それを主題にドラマにすることだってできたのに、著者は確かめようのない過去として、今それをどう消化するのか、真実を伏せたままにする。
最後にこれは一つの歌の物語でもあったことが明かされる。文字にはじめから旋律がくっついて生まれてくる歌。上手な歌手が歌わない方が良い歌。神様からの贈り物のような、その歌。名脇役を演じたゴンドラの船頭に大拍手なのである! ヴィヴァルディという人がここに描かれていたような人物だったかどうかということなど、この際たいした問題ではないのだった。

歌、教えてもらったんだよ。自慢じゃないが、数多いるゴンドリエーレの中でも、こんなに歌のうまいゴンドリエーレはいないと思うよ。なんたって、先生は、かのアントニオ・ヴィヴァルディ大先生なんだから。誰にも言えないけどな。秘密だけどな。


若い娘のようにわめいたり号泣したりはしない。若づくりしたり、達観したふりをするのでもない、年齢相応の自制をわきまえた語り口。
十八世紀バロック時代の、運河と橋と路地の街ヴェネツィアの、とある狭い界隈の、主役を演じるには年齢をとりすぎて、生よりも死に近い人たちの、ほんのささやかなクロニクルにすぎない。著者が幻視した、そんな遠い昔の異国にあったかもしれない小さな物語がこれほど身近に、そして思った以上に痛切に感じられてしまうのはなぜか。
人の縁の不思議とか、流行り言葉を使えば「絆」のようなことが書かれてあるのだが、うまく言えない。言おうとも思わない。手っとり早いひと言を以て説明しようとも思わない。これは答を押しつける人生指南書でも成功をけしかけるビジネス書でもないのだから。
ただ、この「ピエタの娘」たちに親密な共感を寄せるのなら、あなたもわたしもまた「ピエタの娘」なのだと、自分が異性であることは差しおいても言ってみたい。せめてこの素敵な本を読んだ後しばらくの間ぐらい、そう信じることは赦されるのだと自分を肯定しても良いのではないか。