フレッド・ヴァルガス / 裏返しの男

【 フレッド・ヴァルガス / 裏返しの男 (364P) / 創元推理文庫・2012年 1月 (120309−0312) 】

L'HOMME A L'ENVERS by Fred Vargas
訳:田中千春



・内容
 アルプス山麓の村で狼の歯形の残る羊の死骸が相次いで発見された。そして喉に巨大な噛み痕のある女牧場主の死体が……。彼女は狼男の存在を主張していた。巨大狼? それとも本当に狼男なのか? カナダ人動物学者と村の住民カミーユは、事件に巻き込まれる。この事件のテレビのニュース映像に、かつての恋人カミーユの姿を見出したアダムスベルグ警視は現地に乗り込んだ! 仏ミステリ界の女王の傑作。CWA賞受賞シリーズ第二弾。


          


つぶらな瞳の美麗写真につられてジャケ買い
フランス南東部の牧場で羊が襲われ、続いて牧場の女主人も殺される。首には深い牙の痕が残っていて、狼か、あるいは狼男の仕業との噂が村に広まる。警察は動いてくれず、自ら犯人を捕まえようとする男二人組みにつき合わされるはめになるのがヒロインのカミーユ
「狼男」という時点で少々眉にツバを塗って読まねばなるまいと思わされるのだが、これがなかなかどうして読ませる。古くから牧畜を生業としてきたアルプスの村々にとっては、家畜を襲う狼は忌まわしい害獣だ。狼男なんて映画か絵本の中だけの化け物にすぎない、とは思わせない序盤の排他的な田舎の前近代的トーンに馴らされてしまうと、こちらも、では狼男でないのなら何なのだという気にさせられてしまうのだった。

 戦いだ。
 九百五十万頭の羊。四十匹の狼。


しかし、作品全体はそれほどミステリ色もホラー色も濃くはない。後半は犯人を追ってのロードノヴェルっぽい雰囲気になるのだが、珍道中とまでは言わないまでも、アフリカ系青年と老羊番の男二人と紅一点のカミーユという、奇妙な三人組(そこに後から刑事が一人加わる)の旅と人間模様に面白味があるのだった。
羊が殺された。断崖絶壁の山岳地帯をドライブしてその牧場に向かう。今度は人が殺された。峠を越えて現地に行く。またも羊が。山中のオートキャンプで夜を明かしてそこに向かう。 そんな調子の後追いで犯人が捕まるわけがないのだが、むしろこの寄せ集めグループを書くためにこういう展開を選んだのかとも思われる。そこで間延びせず読者を退屈させないために最重要になるのは謎解きよりも追跡者たちのキャラクター(彼らの会話と行動)なのであり、そこにこそ、この作品の魅力があるのだった。



文体はいかにも刑事小説っぽいハードボイルド調で、表情や心理描写に行を割かない。カミーユは作曲家の顔を持ちながら地元では配管工事を引き受けたりもする気取らない女性。長い黒髪でいつでもジーンズにブーツ、工具カタログをながめているときがいちばん落ち着くという彼女は自立した、おそらく美人である。というのは、べつに彼女が美人であろうがなかろうがこのミステリには関係がないのであって、ヒロイン像に無用に著者の自意識が顕われないのが好ましい。
追跡行に行き詰まった彼女の伝手で登場するのが、事件解決の主筋を担うもう一人の主人公、パリ警視のアダムズベルグ。この人がまた推理小説の刑事らしからぬつかみどころのない男で、頼りになるんだか、カッコいいんだか悪いんだかわからないのだが、そこはかとなくペーソスを漂わせていて悪くない。
この二人、全然スタイリッシュな感じではないのに、いかにもフランス流の自由を感じさせた。

 「変わり者のデカのこと、そんなデカのことを、ぼくは言ってるんですよ」
 「あたしは変わり者のデカを知ってるのよ」
 「冗談抜きで?」
 「完全に冗談抜きよ」


狼騒動を扱った本書の‘隠しテーマ’を書いてしまう。それは以下の二点。
  ・オオカミは人間を(絶対に)襲わない
  ・フレンチアルプス(メルカントゥール国立公園)にイタリア国境を越えてオオカミが戻りつつある
読み終えてみれば、切れ者の刑事や探偵が颯爽と理路整然と難事件を解明する英米本格ミステリとはひと味違う、なるほどフレンチ・テイストだったなと思う。妙に清々しい読後感があった。
実はこの作品でいちばん怖かったのは、犯人の残虐な所業ではなく、猟銃を持ち寄った村人たちが‘狼狩り’に出かけるところだった。童話やお伽噺に出てくるオオカミ像からもよく指摘されることだが、日本とヨーロッパのオオカミ観の違いをあらためて考えたりもした。オオカミと、オオカミを狩る者。そのどちらも含めて一つのオオカミの文明だとすると、自ずと犯人は判ろうというものだ。なかなかにこのタイトルは意味深だったのである。
タイトル「裏返しの男」とは……、あぁ、なるほど。 というか、実は自分がそうなので