瀬戸内晴美 / 諧調は偽りなり


四角関係のもつれから大杉栄が神近市子に刺される「日陰茶屋事件」で終わった『美は乱調にあり』の続篇。もともと『美は〜』は大杉と野枝の生涯(死まで)を書くつもりだったが、執筆当時、大杉を殺した甘粕大尉の人物像を絞りきれなかったために、一旦筆を置く形をとらざるをえなかったと瀬戸内さんは冒頭で語っている。
本作は『美は乱調にあり』から十五年を経た1981年から三年に渡って文藝春秋に連載、1984年に単行本化された。



瀬戸内晴美 / 諧調は偽りなり (上251P、下244P) / 文藝春秋1984年 (120323−0328) 】



・内容
 関東大震災の混乱のさなかに、アナーキスト大杉栄は、伊藤野枝、六歳の甥・橘宗一とともに、甘粕憲兵大尉らの手によって惨殺された。妻・保子と神近市子、伊藤野枝と愛の四角関係をむすんだ彼の前半生をはじめ、自己に誠実に真摯に生きた大杉栄の悲劇への軌跡を克明に描いた壮大な長篇評伝小説。


          


『美は乱調にあり』が「青鞜」を踏み台に因習にとらわれない‘新しい女’として生まれ変わろうとする伊藤野枝に売れっ子女流作家の勢いを重ねたものだとしたら、本作『諧調は偽りなり』は人気作家の看板をかなぐり捨ててでもの迫力と執念を感じさせる渾身の労作。大杉栄を軸とした活動家たちの群像劇のような仕上がりで、取材から得た証言と関連書からの引用が多く、前作よりはるかにノンフィクションの様相が強い。必然的にボリュームもぐっと増している。
大逆事件以後、社会主義者への弾圧は一層厳しさを増し、運動は枝分かれし細分化していった。三面記事を賑わした恋愛スキャンダルで多くの同志を失った大杉は、堺利彦荒畑寒村らとは一線を画しながら、再び大きな吸引力を発揮して運動の前線に復帰していく。大正デモクラシーの思潮が広がる中、米騒動メーデー労働争議が各地で起こっていたが、軍人の息子でありプチブル的環境に育った彼は、自分が労働者の連帯なぞ叫んだところで説得力を持たないことをよく承知していたのだった。

 いつのまにか法廷中が定評のある寒村の名弁論に聞き惚れていた。終わったとたん、法廷の後方で大きな拍手を送る者があった。
「誰だっ」 寒村の演説の間、不興気な表情をかくそうとしなかった裁判官がどなりつけた。
「お、俺だっ」 太い声でどなりかえして立ち上がった男の方を満廷の視線が追った。
「名前を云えっ」
「お、大杉だっ!大杉栄だ」


アナーキスト無政府主義者)」というと、なんだか過激な危険思想の持ち主かと思ってしまうが、大杉栄という人は子ども好きで妻思いの、おおらかで優しい男なのだった。
常に尾行と密偵に監視される生活を強いられながら、ざっくばらんな人柄から尾行を手なずけてしまい、荷物持ちをさせ、買い物に遣ったり、食堂の支払いをさせたりもしてしまう。悪戯好きな腕白小僧のような一面があって、権力に反抗するというより、威張っている奴を茶化して面白がるユーモア精神も豊かな、どうにも憎めない男なのだった。
要注意人物として厳重にマークされていたはずなのに、彼は二度も海外に行っている(上海とフランス)。もちろん旅券は発行されないので密航なのだが、そんな大胆な行動力もこの人の大きな魅力だ。



二十世紀初め、大正時代の日本にこんな男がいたというのは驚くばかりだ。
当時、社会主義無政府主義は輸入されたばかりの若い思想だった。堺利彦がそうであるように、大杉栄も獄中でフランス語とロシア語、エスペラントを学び、自らの思想を深めたのだった。クロポトキンバクーニンを自分が発行する新聞雑誌に訳載するのが彼の具体的な仕事の一つで現実的な収入源だったのだが、それらはことごとく発禁処分をくらう。
権力の不当な弾圧にひるむことない豪放さを持つ彼だったが、その思想信念を支えた読書量、語学力、知識慾と思索力は半端なものではない。
そんな男のそばにいて、野枝は「自分たちはけして畳の上では死ねないだろう」と早くから予感しているのだった。彼女は大杉との八年間に四人の娘と一人の息子を産んだ。五人目を出産直後に大杉とともに拘禁され、そのまま帰ることはなかったのだった。

 この裁判で奇怪なのは、すでにこの時、「死因鑑定書」は法務省の手に渡っている筈なのに、一向にその矛盾を突っこもうとしないことで、甘粕や森のいいなりの偽の弁明を受けとめてしまうことであった。明らかにそれは馴れあいの裁判であり、大方の結果ははじめから決められている猿芝居のような裁判にすぎなかったといえよう。


これを読むまではよく知らなかった大杉栄の人物像と冒険的な生き様を知るにつけ、歴史教科書にたった一行記されているだけだった「1923年、無政府主義者大杉栄虐殺事件(甘粕事件)」の真相は衝撃的だった。
なぜ大杉と野枝は殺されなければならなかったのか。どのように殺されたのか(公式の死因は「絞殺」である……)。どうして六歳の子どもまでが一緒に殺されなければならなかったのか。
日露戦争から満州事変、太平洋戦争へと続く時代の日本の話である。国家とか軍部とか、聞いてあきれるほかない。記されている著者の痛憤をそのまま自分も受けとめた。大杉と野枝の最期があまりにあっけなく無惨で暗澹とした気持ちになったのも、『美は乱調にあり』と本書を通じて二人のたくましい生命力を見せつけられてきたからである。
堺利彦大杉栄も、まず始めに唱えたのは「非戦」だった。人間として当たり前のそれを主張する者は弾圧の対象だったのである。

たとえば司馬遼太郎『龍馬が行く』によって昭和の日本人に坂本龍馬像がイメージづけられたように、この国民的作家の労作によってもっと大杉栄像が認知されていても良さそうに思えるのだが。現在、この作品は瀬戸内女史の全集ぐらいでしか入手できないようである。