瀬戸内晴美 / 遠い声


これが瀬戸内寂聴だったのか。ずっとかんちがいしていた。しびれた!



瀬戸内晴美 / 遠い声 (282P) / 新潮社・1970年 (120405−0409) 】


          


明治43年(1910年)の大逆事件、十二名の死刑囚の中で唯一の女性を描いた本作『遠い声』は昭和45年(1970年)に刊行された(1968年、「思想の科学」に連載)。『美は乱調にあり』が昭和40年刊。小説のモデルとして大正時代の‘新しい女’、「恋と革命」に命を捧げた伊藤野枝の生涯を辿っていた著者は、野枝より前に革命に殉じ激しく生きた女がいたことを知った。管野須賀子。荒畑寒村幸徳秋水に愛された女だということぐらいは知っていたかもしれない。彼女について調べるうちに、信じられないような事実を次々に知らされた。作家は再びペンをとらずにいられなくなった。そういうことだろうか。
……というのは、ほとんど現在の自分の読書体験からの推察である。大杉栄虐殺事件を遡っていけば(『パンとペン』を思い出しつつ)、自ずと登場人物は重なる大逆事件赤旗事件に行き着くのだから。

 私はその後、愛しあうたび、今、死んでもいいと口ばしった。秋水は反対に、命が惜しくなったといいはじめた。
「せめて半年でも、おだやかな、女らしい生活をさせてやりたい。物心ついて以来、男にいたわられ、男にかばわれるという生活というものをしたこともないのだろう。お前に人並みの幸福を味わわせてやるため、も少し長生きしてみたくなった」
といってくれる。私は秋水のそういう思いやりは身にしみて嬉しかったけれど、私の思い描く理想の恋は、おだやかで平凡な家庭の中の幸福ではなく、いつでも自分の翅を自らの恋の炎で焼きながら天駆けているような火の鳥の姿だった。


ここに一人称で書かれてあるのが管野須賀子の真実の姿かどうかはわからない。しかし『美は乱調にあり』の伊藤野枝とくらべると、ずっと生々しく肉感的に三十歳の若さで散った女の儚い生命が迫ってくる。著者・瀬戸内晴美女史の共感か鎮魂の思いか、あるいは正義感と使命感によるものなのか、国家権力に葬られた一人の女の無念と情念、痛憤が渦巻きながらまざまざと紙上に甦ってくるようだった。

投獄され八ヶ月、死刑判決が下り今日か明日か、ただ‘その日’を待つ須賀子の獄中記の形で語られる半生。不幸で不運続きだった少女期、文学に憧れながら婦人記者として働いた若き日々、そして荒畑寒村と出会い、幸徳秋水に傾倒して同棲、革命の意志を固めていった最後の数年。
大杉栄と出会ってしまった伊藤野枝がそうであるように、管野も幸徳らと出会わなければ「無政府共産」とか「革命」などという言葉とは無縁に、天皇暗殺など妄想することすらない家庭婦人として生活したのかもしれない。彼女は男に感化されただけなのだと「男」どもは下卑た口調で言いたがるかもしれない。では、なぜ彼女は革命家を志したか? 日本で初めて無政府主義者を公言した女性として、女革命家として絞首台に上ったのか?



彼女の身を革命運動に投じさせたのは社会主義無政府主義の同志たちではない。「革命家」という言葉に、遠くボリビアの山中を彷徨うゲバラの雄姿をぼんやり思い浮かべるぐらいしか脳のない鈍った頭には思いがけない皮肉として映ったのだが、叛徒として彼女を走らせたのはまぎれもなく当時の国家権力、その暴力体質への復讐心だった。大日本帝国は当時の刑法七十三条をこじつけて体良く彼女らを秘密裏に殺害処分したが、六十年後にもう一回、走る女を生むこととなった。それがこの作品なのである。
権力の横暴、不当な言論弾圧と人権迫害は国家的大犯罪につながって、無実の十二名を一斉処刑した。ならば、ペンによって管野須賀子を生き返らせようと作家は意気込み、闘った。その執念、気迫が筆致に充溢している。瀬戸内女史もまた、自由を懸けてこれを書いたのだ。(実際、1960年代後半にこのような作品を世に問うのは、よほどの覚悟が要ったことだろう)
詳しい事情は知らない。この作品が契機だったとは限らない。でも、この頃、瀬戸内晴美さん自身の“心の革命”は進行していた。彼女が「寂聴」になるのは本作刊行の三年後、1973年のことである。

美しい和田英作の装幀の歌集を、私は見るだけであきたらず、手で撫で、頬に押し当て愛撫せずにはいられなかった。華やかな灯の下で、髪かんざしのゆらぐ黒髪も高く結い上げた令嬢たちのなまめいた膝にひらかれるこの歌集が、冷たい、暗い、真冬の監獄の独房で、かじかんだ女囚のひび割れた手から何度もとりだされながら、繰り返し読まれているなど、晶子女史は想像されたことがあるだろうか。


大審院の第一審で結審、死刑が確定。判決から執行まで、わずか一週間だった。上告はできない。近代的法治国家を名乗るわが国の裁判である。罪状とされた「大逆」の内容もいわずもがななお粗末な捏造だが、お上にしては異例にスピード感を持った仕事ぶりではあったわけだ。予審、公判の様子も書かれているのだが、紹介されている若き弁護士・平出修の正当な弁論が実に清々しく感動的だった。

この作品は内容もさることながら、死刑(権力による強殺)を目前に控えた被告の人間心理に向き合おうとする著者の、未遂に終わった革命に伴走しようとする渾身迫真の筆致が圧巻。瀬戸内晴美は原稿用紙の升目に、管野須賀子を生き、死のうとした。執筆中、その女革命家が自分のペンに乗りうつったような感覚をおぼえたのではないか。自分がある人物に成り代わったかのように書けるのだとしたら、優れた作家はまた名優でもあるといえる。
なぜ瀬戸内女史はこれを書かねばならなかったか。執筆当時の世相を考えてみれば(そして現在も)、ただ歴史に露と消された一人物の生命について書いてあるのではないと思えてくる。
死出の直前に平出修が差し入れてくれた与謝野晶子の歌集を管野は愛しく読んでいた。最期の朝食には小ぶりの鯛と羊羹が添えられていて、今日が‘その日’なのだとわかったという。