鎌田 慧 / 残夢


【 鎌田 慧 / 残夢 大逆事件を生き抜いた坂本清馬の生涯 (352P) / 金曜日・2011年11月 (120410−0413) 】



・内容
幸徳秋水、管野スガらが死刑台の露と消えて100年。鎌田慧は、坂本清馬に焦点を合わせることで、未だに謎の多い「大逆事件」に新たな光をあてた。それは過去の歴史を掘り起こすことにとどまらない。死一等を減ぜられて生き延び、戦後に再審請求を闘った坂本清馬の生涯は、いまの暗い時代にこそ強い輝きを放つ。


          


大逆事件から100年の昨年、「週刊金曜日」に連載された鎌田慧さんの評伝。幸徳秋水と管野須賀子を中心に語られることが多い大逆事件だが、連座して死刑に処せられたのは他に十名、同罪で死刑判決が下されながら天皇の‘特赦’によって無期懲役に服した者も十二名いた。
ある意味では、秋水と須賀子は革命思想に殉じた物語の主人公だったといえるが、他の二十二名は思想犯の汚名を晴らす機会すら与えられないまま、ひっそりとこの世を去った。彼らは無実の犠牲者であるという悲劇性すらぼんやり霞んで「不運」の一言で片づけられてしまいそうな、そうするしかなさそうな虚しさ、収まりの悪さがこの事件のもう片側に重くある。幸徳秋水の書生として暮らした時期があった坂本清馬も、ただそれだけの理由で死刑判決を受け、「死一等を減ぜられ」無期刑に服した一人だった。



先に読んだ瀬戸内晴美『遠い声』の管野須賀子は自他共に認める革命家だった。彼女は自らの死を甘んじて受け入れようとしていたが、自分と関わりがあったがために殺される者たちへの痛烈な懺悔の念を刑死直前まで抱いていた。
同郷の幸徳秋水の思想に共鳴した坂本清馬は秋水宅に同居するようになるが、病弱な秋水の身辺の世話雑務をこなしていただけだ。主義者としての実質的な活動らしきものといえば、熊本評論への論文執筆と秋水のクロポトキン翻訳書に発行人として名前を貸したぐらいである。
別件逮捕から大逆罪で訴追されたのが26歳のとき。無期囚として秋田監獄に二十年、故郷の高知刑務所に移管されて四年半。真っ正直な性分で自分の無実を主張し続けた彼は謹慎態度を評価されず、連座して同刑に服した十二名のうち最も出所が遅かった。(獄中で自死、衰弱死した者もいた) 仮出獄が認められたのは1934年、49歳のときだった。

 清馬はときどき、懲罰室に入れられていた。反抗的だった囚人は、減食、図書閲覧・運動禁止、懲罰室隔離などの処分を受ける。癇が強くて怒りっぽい、反抗的でずけずけ文句をいう清馬は、懲罰室の常連で、処分は百回以上と本人は書いている。短いときで一ヶ月、長ければ二ヶ月ものあいだ、獄中獄としての罰室に隔離されていた。


清馬が再審請求の訴えを申し立てたのは死刑判決の五十年後、76歳のとき。
大逆事件全体を一篇の物語として見ると、唯一の存命者として坂本清馬が終幕の一人舞台を任せられた形である。事件後、国は帝国主義に突き進んで自滅して、戦前とはがらりと変わった日本になっていた。
しかし、請求は棄却された。昭和の法廷に明治の法廷を裁かせることはできなかった。おそらくこの当時には、すでに大逆事件の真相は世間に知れ渡っていたはずである。それでも再審が認められなかったとは、どういうことなのだろう。この人の一生はなんだったのだろう。
請求の審尋をした裁判長は「革命」といえば「暴力革命」であると決めつける、偏向した人物だった。幸徳秋水の影響を受けた清馬の場合、革命とは「日々の連続的なゆるやかな精神の変革」を指す。勉強不足の役立たずの裁判官もいるものだと、もう怒りすら湧いてこないのだった。



鎌田さんは2009年の厚労省村木厚子さんの不当逮捕事件を例にあげ、検察の不正や暗黒裁判は現代にもつながっていると書いている。
自分としては、それをうやむやにして受け入れる社会感度の鈍さもあると感じた。昭和の時代には明治時代の大逆事件の生存者なんて厄介なだけの存在だったのではないか。時代の空気がそうだったのではないか。戦争責任も曖昧なまま高度経済成長に突入。オリンピックだ東京タワーだと浮かれた世の中、社会主義だの共産主義だの口にする人とは関わりたくないと誰もが思っていたのではないか。事なかれ主義のぼんやりした民主主義。
あれだけ注視していた北朝鮮のロケットだかミサイルだかの発射に対して対応が遅れて批判されている政府が、その日のうちに大飯原発の再稼働を発表する。この国の大衆に対してはそういうことがのうのうとまかり通るのが彼らにはわかっているのだ。これだって大逆事件のまいた種の一つと言えるのではなかろうか。