鴨居羊子 / 女は下着でつくられる


「女の子は新しいラブが始まると、新しいブラが欲しくなる」 ほほぉ、そうなのかね。寄せたり上げたり、引き締めたり持ち上げたり。女はいろいろ大変らしい。

男性目線を意識したCMの是非はともかく、ファッションとしての下着がここまで普通に受け入れられるようになったのも、そもそもがこの女一匹狼の「革命」によるのだ。


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鴨居羊子 / 女は下着でつくられる(鴨居羊子コレクション1) / 国書刊行会 (425P)・2004年(120414−0419)】



・内容
 下着デザイナー・画家として活躍しつつ書き残した、みずみずしい感性に彩られたエッセイを集成するコレクション第1巻。
思い切って買った、ひとひらの花弁に似たピンクのガーター・ベルト。「買った翌日から洋服の下につけた。私の中身はピンク色に輝き、おなかは絶えずひとり笑いをした。とくにトイレへ行くときがたのしみである。ぱっとスカートをめくると、たちまちピンクの世界が開ける。おしっこまでピンク色に染まっているようであった」 ―たった一枚の下着による感動が、鴨居羊子の人生を変えた。 傑作自伝「わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい」、最後のエッセイ集「わたしのものよ」を収録。


          


あちらこちらで目にし耳にしていた「鴨居羊子」の名前。下着ぶんか論、ミス・ペテン、前衛下着道…… この人のエッセイは良いという噂も聞いていたので、一度読んでみたかった。
五十年前、戦後復興期の大阪で新聞記者をしていた鴨居さんは「下着屋をやりたい」と思い立って新聞社を辞めた。デザインも洋裁の知識もないのに、退職金の三万円をすべてつぎこんで布地を買い集めると、自分で切ったり貼ったりして新しい下着をつくり始めた。出来上がった商品は問屋やメーカーに持ちこんだりはせず、モデルに着せて映画館やキャバレーで「下着ショー」をやったりギャラリーの個展で見せた。
現在では当たり前の小さくて機能的な下着がその当時には斬新だったのは想像に難くない。文字どおりの、それ以上のものではありえない下着。白からくだ色のメリヤス肌着。ズロース、シュミーズ、猿股、ステテコ。当時一般的だった、洋服の下でもそもそしていたそれらを鴨井さんは「人生の重荷そのもの」のようだったと書いている。

 オモチャとかオナベとか、変なことを学芸部長に言っていたが、私は下着屋をぜひともせねばならぬと思っていた。
 なぜオナベ屋云々をいうかといえば、つまり、ものをつくる姿勢としては、それが下着でなくともオナベでも同じであるという意味であって、私がやるべきことはやはり下着でなければならなかったのだ。
 下着といううすっぺらな一枚の布地は私への命題として発見した見事なモチーフだと私はみぬいた。


彼女は独創的な下着を次々と発表して、それは直売で人々の手に渡っていった。この新米下着屋は商売のノウハウなんて何一つ知らなかったけれど、自分がつくる商品が何を起こすかだけはわかっていた。
問屋街で安い素材を調達するのではなく、いきなり東レのえらい部長さんに直談判に行く。駆け出し以前の、得たいの知れない娘のひたむきな熱意に押されて、その部長さんは最新の化学繊維の布地を分けてやる。金具を特注した町工場の職人はカラフルに塗り分けられた彼女の指の爪に驚いて「この人は何か新しいことをやらかす人だ」と協力してくれる。下着ショーは意外にもキャバレーの新しい呼び物となり、‘衣裳’としてまとまった注文が入った。今よりもずっと大らかで心の広い人たちの「持ちつ持たれつ」の精神が鴨居さんの背中を押し励ましたのだった。
明確なヴィジョンも具体的なプランもまだないのに、たった一坪の事務所兼工房で自分の会社の名前をあれこれ考えては一人わくわくしている鴨居さんの姿は読んでいるこちらまで楽しくなってくる。
そうして始まった下着会社が、古代エジプト人が着たシンプルな貫頭衣を社名とする「チュニック」だった。



新しい下着がメディアの注目を集め世間に広まると、大デパートや大手メーカーから好条件の取引注文が舞いこむようになったが、彼女は断固として応じなかった。鴨居さんがつくる下着は彼女自身の反映であり、大量生産の流通ルートに乗る没個性化した商品とは対極に位置するものなのだった。
本書にはたびたび「なぜ新聞社を辞めて下着屋になったか」を自問する文章が出てくるのだが、そこに書かれている彼女の初心は、商売人に限らず、夢を追うあらゆる挑戦者が心に刻むべき高潔な決意表明でもあって、強く胸を打つ。また、自分の商品が知られるということは、一つの真実が共有され増殖していくことなのだとの件りは、なんだか革命運動の理念のようにも思われた。実際、付けていることを意識させず、なおかつ着ていて楽しい気分にさせてくれる下着は女性たちの意識を大きく変えたのだろう。彼女の下着は、ただの商品ではなかったのである。
下着デザイナーとして名が知れだした頃、彼女の近くにいた人々 ― 宇野千代今東光、VANの石津謙介、それに寿屋(サントリー)宣伝部で「洋酒天国」をつくっていた頃の開高健…… 記者時代のつてもあったのだろうけど、やはり才は才を呼んだのだろう。

 こうなりゃ犬の味方になって人間と闘ってやると、私は殺気じみてワケのわからぬことを言いだした。この犬は何か手柄をたてたのだと言おうとしたが、なんの取り柄もなかったことに気がついた。この犬は道で倒れた酔っぱらいも助けたんだと言おうとして、その酔っぱらいは私であったことに気がついて止めた。


なにかしら人の心をつかんで放さない魅力が彼女と彼女の商品にはあったのだろうけど、文体は純情乙女風だ。どこか‘女・寺山修司’みたいな感じもあるのだが、自分がいかにして成功したか、そういう自負は微塵も文面に表れてこない。ただ自分の感性の趣くまま、信念を曲げずに突き進む青春の初々しさに満ちている反面、彼女はひとり自分の机で涙ぐんでいたりする。本当は人間嫌いで、ただ一人の相棒は犬の「鼻吉」だった。
ティーブ・ジョブズの伝記が売れるご時世だから、この『わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい』も起業家マインドがどうとかイノベーションがどうだとかと読もうとする人もいるかと思うが、誤読である。天才の本を読んだからって、天才にはなれない。グラフの右側を上げたいと考えている人とこの人たちには決定的な違いがある。鴨居羊子ジョブズも商売人ではなく、表現者だったのだから。
凡人はただ、しなしなと歩いて行って、角を曲がったらいきなり駆けだして小躍りしたり、美容学校の校長が突然皇后陛下に見えたり、金持ちのマダムに啖呵を切って悪態をついたり、母親と喧嘩して傷つけたことを悔やんで涙する、天才の自然な感情の発露に触れられるだけでも感謝しなければならない。
「ロバに乗って下着を売りに」行きたかった鴨井さんが実際に乗っていたのは米軍払い下げのジープだった。幌を開けフロントウィンドを畳んで、荷室に色とりどりの下着や反物を詰めこんで、風を浴びて走り回った。
ちなみに、自分が免許を取って初めて買ったクルマもジープだった。何を言いたいかというと、オオカミはジープに乗って


     

ずっとメモ帳にはさんだまま持っている鴨居羊子さんの写真がある。たぶん、いつかの新聞か雑誌から切り抜いたものだ。
うまく言葉にできないけど、鏡に写したこの一葉のセルフポートレイトから感じていたものと、この本の文章はシンクロした。この人はきっとストーンズが好きだっただろう。マリリン・モンローよりブリジット・バルドーの方が好きだっただろう。そんな気がする。