ピアノマニア


【 ピアノマニア 】

PIANOMANIA
2009年 ドイツ・オーストリア合作


・内容
 現代音楽の旗手であるピエール=ロラン・エマールがバッハの傑作「フーガの技法」を録音することになり、演奏するピアノにスタインウェイ社の「245番」が選ばれた。同社の技術主任である調律師シュテファン・クニュップファーは、1台のピアノでさまざまな音色を追求するエマールの細かい注文に応えるべく、さまざまな手段を講じてピアノを調整していく。

 「ピアノマニア」オフィシャルサイト→ 予告編


          



低音から高音まで豊かで広がりのある美しい音。理想の音色を問われればたいがいのピアニストはそんなふうに答えるのではないか。でも、それは一般論であって、実際には演奏家によって音感も好みも異なり、その意味するところは微妙にちがう。
フーガの技法」をレコーディングするピエール=ロラン・エマールとスタインウェイの調律師、シュテファン・クニュップファー。神経質なフランス人ピアニストの難しいリクエストに応えようとするドイツ人調律師の奮闘ぶりを通して、調律師の仕事、クラシック音楽業界の裏側、ひいてはピアノ音楽の魅力が伝わってくるドキュメンタリー映画だった。


青柳いづみこさんの本に、自ら調律と整音技術への造詣が深かったミケランジェリは自分が弾くピアノの保管庫の温度と湿度まで厳しく指定した、というようなことが書いてあった。鍵盤は浅め、ペダルのアクションにもうるさかったとか(ミケランジェリの調律を日本人が担当していた時期もあったという)。
プロのピアニストというのは誰しも完璧主義者なのであろう。ましてや、世界のトップレベルともなればなおさらそうだろう。そんな人物と仕事ができるとしたら光栄ではあるだろうが、反面、気の重い、気の抜けない作業が続くであろうことも容易に予想されて、自分ならば、ちょっと遠慮申し上げたいところである。



厳密なことをいえば、ピアニストの耳と調律師の耳は同じではないのだから、調律した音がピアニストの望みどおりに変わったかどうかは調律師本人にだってわからないはずだ。それでも、ピアニストが要求する方向へ音を調整しなければならない。「こんな感じ?」「こんな具合でどう?」を繰り返してすり合わせていくしかない。調律という仕事はまず解答のないものだと言ってよさそうなのだが、演奏者のイメージを調律師が(あくまで調律師の側が、である)共有できなければ何も始まらない。
となると、調律師はもちろんピアノを熟知した技術者でなければならないのだが、プライドの高い世界的な頑固者(世間一般には偏屈者)と上手くつきあう営業術を心得た人物でもなければならない。ときには口八丁手八丁な柔軟なところもなければ、とてもじゃないが務まらないことになる。相手の要求を全部聞き入れていちいち馬鹿丁寧に応対しようとすれば、こちらの気が変になってしまう。ピエールとシュティファンの共同作業を見ていると、クレーマーと百戦錬磨のサポートセンター相談員のやりとりのように見えてきたりした。
名門スタインウェイ社の技師ともなれば、若い頃からかなりのレベルまでピアノを(演奏家として)学んだのだと思うのだが、シュテファンはどこかの時点で音楽家の道をあきらめて裏方に転身しなければならなかったのだろう。映画の中で彼の経歴が詳しく語られているわけではないが、芸術と仕事、ピアニストとメーカー社員のあいだの溝を前にした彼の自虐を自分は見てしまった。


しかし、シュティファンは寝る間も惜しんで調律作業に没頭する。顧客=ピアニストのため? 伝統ある老舗会社のため? それとも、良い音楽をつくるため?
フーガの技法」には四種類の音が必要なのだとピエールは言う。オルガン風、クラヴィノーヴァ風、チェンバロ風、室内楽風。あくまで「○○風」のニュアンスに近づけるために、シュティファンは試行錯誤を繰り返す。自分でつくった音響板を乗せてみたり、ハンマーフェルトを変えてみたり。
自分の耳にはそれで音がどう変わったかなんて全然わからなかったのだが、コンサートの前や録音前にどんな作業がなされているかをかいま見られるだけでも面白かった。(銘器がずらり並んだスタインウェイ社の倉庫や工房も少しだけ映される) われわれがレコードやコンサートで良い演奏が聴けるのは、ピアニストが機嫌良く演奏に集中できているからこそだが、その環境、コンディションを―ピアノだけでなく、実はピアニストの気分や調子も―整えるのが調律師の役割らしかった。



この映画を観る前に、一つだけ心配していたことがあった。予告編を見ると‘ピアノ芸人’のイメージのあるパンダ、ではなく、ラン・ラン(郎郎)が目立ちすぎてやいないか不安だったのだが、彼が登場するのは前半だけだったので胸をなでおろした。
主人公のシュテファン・クニュップファーは四十歳代か。クラシック界ではこの年代のピアニストはまだ若僧と見なされるように、この業界ではまだ若手ではないかと思う。
新進のラン・ランと中堅の仕事盛りのエマールのあいだに短くはさまれる、鍵盤を一撫でしてすぐに演奏を始める引退直前のブレンデルの余裕綽々な姿が貫禄満点だ。


これがデジタルだったらどうだろう? いまやモニタ上で鍵盤でも菅でも弦でもどんなサウンドもつくりだせて音色だって自在にコントロールできる。メモリに保存したデータを呼びだせば、いつでも何度でも同じ音が再生される。
そういう時代に、このめんどくさいピアノという楽器に精魂傾ける人たちがいる。徹底的に人間技を注ぎこまないことには良い音で鳴ってくれない。ピアノもまた生き物なのだということをまざまざと見せてくれる映画だった。
「癖のない上手いピアニストが弾いたピアノは、その後も均一な音を保ってメンテナンスも楽だ」という調律師の言葉には、ピアノに限らない真理を含んでいると感じさせられる。