宮内悠介 / 盤上の夜


昨年一月に行われたプロ棋士対コンピュータの「将棋電王戦」、米長邦雄(永世棋聖) 対 ‘ボンクラーズ’(将棋対局ソフト)。コンピュータが(人間の)名人を破ったことで大きな話題になったのは記憶に新しい。しかし、その結果を受けてただちに人間よりコンピュータプログラムの方が強いとは即断できないのだと、その後のいくつかのNHKの検証番組や米長氏本人のコメントから知った。
人間の棋士が「大局観」に基づいて先を読み流れをつくりながら駒を進めるのに対し、コンピュータはその都度2000万手の中から(!)瞬時に最善の一手を算出して打つ。相手のそうした特性を十分踏まえたうえで米長氏は対局に臨んだのだが、その指手は人間どおしの対戦では使わないものだったようなのだ。


ボードゲームを題材にしたこの短篇集にも、マン-マシン戦を扱った作品が二本収められている。しかし、人間とコンピュータ、どちらが優れているのかなんてことを問うているのではなかった。



【 宮内悠介 / 盤上の夜 / 東京創元社・創元日本SF叢書 (284P)・2012年 3月(120427−0430)】



・内容
 相田と由宇は、出会わないほうがいい二人だったのではないか。彼女は四肢を失い、囲碁盤を感覚器とするようになった―若き女流棋士の栄光をつづり、第一回創元SF短編賞山田正紀賞を贈られた表題作にはじまる全六編。同じジャーナリストを語り手にして紡がれる、盤上遊戯、卓上遊戯をめぐる数々の奇蹟の物語。囲碁、チェッカー、麻雀、古代チェス、将棋… 対局の果てに、人知を超えたものが現出する。2010年代を牽引する新しい波。


          


巻頭に配された表題作「盤上の夜」はSF短編賞受賞作ということだが、表面上はSF的要素は少なく見える。手足を失った少女が独特の感性で碁石を打ち、やがて囲碁界を席巻し、本因坊まで昇りつめる。身体障がいの補助ツールが出てくるぐらいで、書かれているのはあくまで囲碁という競技である。これのどこがSF?と訝っていたのだが、読んでいるうちにいつのまにか、これがSFでなくて何なのだっ!と心を震わせていた。
なにしろ彼女は碁を打ちながら、自分の触覚をあらゆる言語で表現しようとし、垂直に切り立つ氷壁を1ミリ1ミリよじ登ろうとしているのだ。囲碁という古い伝統的な競技が「抽象で塗り替えられて」「ゲームを殺すゲーム」として新しい何かに変わっていく。
その言語感覚、斬新な想像力に触れる悦びはSF的快楽以外のなにものでもない。使っていない脳の一部が熱く刺激されるような、内奥に眠ったままの感覚が覚醒するような、そんな新鮮な衝撃におののかされたのだった。

 ところが、と相田はつづける。囲碁がすべてであり、囲碁のみの世界を生きつづけた由宇の脳は、まったく別の世界を独自に拓いていた。年月をかけて築かれたはずの感覚の地図は、ただちに塗り替えられていった。盤と石それ自体が、相田が言うには、彼女の脳に新たな触覚の一部としてマッピングされていったのである。
 「星が痛い ― それは由宇にとって、一つの現実の肉体感覚だったのです」


二本目の「人間の王」はチェッカーというマイナー・ボードゲームにおいて40年以上も無敗だった男がコンピュータに敗れた実話をもとに、インタビュー記事の形式で記載された作品。三面記事の一トピックとして読み流してしてしまいそうな話題が筆者の心に引っかかる。半世紀に渡って無敵を誇りながら機械に負けた男の人生とは? これも展開はまったくSFっぽくないのだが……、えぇっ!?という仕掛けに気づくと、作品の見え方が180度反転するのだ。

始めのこの二作で完全にやられた。麻雀、チェスの原型、将棋を主題にした以後の作品は、いずれもジャンルを越えた輝きを放っている。(囲碁や麻雀に詳しければもっと面白く読めたかと思う。でも、知らないがゆえに楽しめたのだともいえる)
虚々実々の盤上の駆け引き、火花を散らす棋士雀士の執念、詩情豊かに奔放に幻惑的にたたみかける散文詩の跳躍力、その騙り。ストーリーに史実や実戦の棋譜を落としこんで処理する腕も確かだ。
どの作品の主人公も破滅型だったり、まっとうとは言い難い型破りな人物である。統合失調症アスペルガー症候群前向性健忘症、パーソナリティ障がいなどの登場人物たちも目立つ。これは異端と異形、異能の奇譚集でもあるのだった。



最終話「原爆の局」は再び「盤上の夜」の登場人物たちが集うのだが、その大胆な仕掛けにまたも驚かされた。囲碁の史実に重ねて異端の女流棋士の‘その後’が語られる。ほのめかされているのは囲碁史のみならず人類史のようであって、ここにも何やら「人間の王」らしき者の影が見え隠れしている。
この作品は囲碁を世界に普及しようとした棋士たちへのオマージュでもあるが、古めかしい囲碁とSFというまったく相容れなさそうな世界が、SF的設定も小道具類もいっさい用いず、ただ人間の肉体と精神の可能性のみで融合が実現されているように見える。機械が人を凌駕する時代が到来したとしても、絶対に色褪せることのない、ささやかで永遠なる人間技の勝利であり、コンピュータプログラムに書きこみ不可能な人間の魔的能力の一つ、‘奇蹟’が現出する瞬間でもある。

 「それからどうなったかは、ご存知ですね」
 わたしが首を振るのを見て、相田がつづけた。
 「二人は吹き飛ばされた石を元に戻し、碁を打ちつづけたのです― 」


「神の一手、人の一手」― 骨身を削り、数キロも体重を落とすばかりか精神に変調を来して人生をも狂わせてしまう、そんなギリギリの対局に表れるもの。
プロ棋士や雀士の悲しい性、勝負師の業などというものは自分の平坦な日常から遠くかけはなれた別世界のはずなのに、どうしようもなく共感してしまうのはなぜかといえば、つまり、ここには人間とは何かが書かれてあるからだろう。
この読後感は何かに似ていると感じていたのだが、思い出した。『人間の尊厳と八〇〇メートル』、あの感覚である。
意匠を尽くして語られているのは、裸の人間の姿である。むき出しにされた一個の生、それは残酷にまで孤独だが、それがふと本能的に自然なものに見えてくる瞬間がある。だからハッピーエンドではなくとも必ずしも不幸ではないのだと感じ入ることができる。「現世にとどまることは決して恥ではない」― こんなふうに希望の形を描けるのは、ジャンルに区分されない文学の領域にあるからだ。


「盤上の夜」と「原爆の局」はすでに三回ずつ読んだ。まぎれもない傑作。本年ベストの一冊!